すべては北から


ラスク国務長官は、ラオスと南ヴェトナムの紛争に言及して、どちらも「北方の共産主義者」すなはち中国の圧迫が生み出した紛争であり、しかもラオスでの圧力がそのまま南ヴェトナムに伝わったのであると主張した。すでにラオスから南ヴェトナムに通じる門戸は「目いっぱい開かれてしまっているようなもの」であった。実際、ヴェトコンが最も活発に活動しているのは、南ヴェトナムでも「オウムの口ばし」と呼ばれた最南端に近いサイゴン周辺なのである。この現実からしてヴェトコンの勢力のかなりの部分や資材が北ヴェトナムからもたらされているとするアメリカの主張には、ヴェトコンと北ヴェトナムを結ぶ線、すなはちラオスを経由して北ヴェトナムとを結ぶ浸透経路、いわゆるホー・チ・ミンルートの存在をはっきりさせる必要があった、が、そのための生の材料は不足していた。かと言って近隣諸国の協力や団結をいくら求めたといっても、しょせんヴェトナム=ラオス国境に「水も漏らさぬ」防衛線を確立することは不可能であった。しかし方法はたった一つ残されていた、それこそが「ラオス中立化」協定の成立であった、中立ラオスの指導者になるであろうと目されていたプーマも「ラオスが中立化すれば、ゲリラのラオス通過は止められるであろう」と述べている。いまや東南アジア防衛、すなはち南ヴェトナム、カンボジア、タイはてはビルマにいたる陣営の共産化を防ぐかなめは、ラオスが共産支配に陥るかどうかにかかってきていた。アメリカはそのラオスに最小限の軍事力を備えたうえで国際的に承認された中立かつ独立の「平和な聖域」を作り出そうとしていた、ラスクの言葉を借りれば、北ヴェトナムや中国との緩衝地帯になりうる「平和の島」が必要であったのである。

カリブの炎

炎はラオスから遠くはなれたカリブの海に上がった、ピッグス湾事件である。この事件に関してはこのサイトで数多く触れられているのでここでは詳細は省くがピッグス湾を舞台に演じられたキューバ侵攻作戦の失敗にケネディは潔く全責任をとると表明した。しかし、内心その怒りは極限に達していたといわれている。作戦成功に太鼓判を押した軍やCIAの情報・作戦分野の専門家たちであり、彼らを残したアイゼンハワー前大統領へである。とくにCIAは、侵攻計画の準備と実施の中心であった。ケネディは就任当初CIAにきわめて高い評価を与えていただけに、その失望も大きかった。いっぽう、ダレス長官をはじめとたCIA側は、この種の作戦には多少の危険はつきもののであるにもかかわらず、成功に不可欠な軍事力の行使を最後の最後になってためらった大統領の優柔不断さが敗因のすべてであると言わんばかりであった。ケネディはCIA同様軍部にも不満を強めた。彼は第二次世界大戦の戦友でもあるポール・フェイ海軍次官に、軍首脳の一部に幅広い判断力の欠如があると指摘し、自分は「慄然とした」と漏らしている。ところが統合参謀本部のほうでは、大統領が自分たちの助言を十分に生かさず、にもかかわらず失敗の責をこちらに負わせたと考えていた。こうしたCIAや軍部との軋轢がケネディ暗殺の陰謀を生み出したと考える人々も多い。ケネディは、かつてからその限定戦争論に目をつけていたマックスウエル・テーラー将軍を呼び、キューバ作戦の敗因に関する分析を求めた、そして「今後十年の間に同じような状況に直面する可能性があり、なすべき最善のことは、それにいかに対処の用意をしておくことだと考えている」と述べている。そしてこの予感は、わずか2年後に現実のものとなり大統領と統合参謀本部議長として事に当たることになる。ビックス湾事件以降ケネディは外交政策全般にいっそう主導権をにぎろうとした。たとえば軍事問題についてCIAの情報分析官や軍人などをあてにしなくなった。そのかわり、特別作業班方式の多用など、ごく少数の、信頼できる内輪の人間に依存する傾向が強まっていった。その典型が、大統領特別補佐官マクジョージ・バンディと彼のホワイトハウスのスタッフであり、それは国務省に対抗して「小国務省」と呼ばれた。ほかにも、政界入り以来の側近であるケネス・オドンネルや、すでに8年以上も演説起草者を務めていたソレンセンのような、気心の知れた人々がいたし、テイラーをはじめとしてケネディの心を捉えた少数の軍人たちもいた。そして、司法長官である弟のロバートが控えていたのである。

ケネディへの圧力

ラオス中立を鮮明にしたケネディに対して、危地に陥った右派勢力を救うためにアメリカの直接軍事介入を求める声は絶えることはなかった。しかし、もしアメリカが本当に介入に踏み切るのならば、ラオスに限らず北ヴェトナム、中国南部にまで作戦が拡大するかも知れず、それだけの覚悟が必要であった。5月4日、アジア情勢の検討と東南アジアに対するアメリカの覚悟を表すためにジョンソン副大統領が東南アジア諸国を歴訪したが、その席上、タイのサリット・タナラット首相に対し「アメリカがラオスに介入すれば、中国は50万人規模の兵力を投入してくるであろう」と述べ、ジョージ・デッカー陸軍参謀総長も、アメリカのラオス介入は「中国と北ヴェトナムを引っ張り込む可能性が極めて高い」と懸念を表明していた。アメリカがラオスに釘付けされているすきにソ連がベルリンや朝鮮半島などで危険な行動に出る可能性もあった。
しかしそれでも、このままラオスが中国の影響圏に入り、東南アジア全体が脅威にさらされかねない事態を、傍観しているわけにはいかなかった。対中関係改善の道を探るチェスター・ボウルズ国務次官でさえ、アメリカが「四、五年以内に中国との全面戦争に直面する可能性は高い」と考えていたほどであった。後は、いつ、どこで、どのような形で米中対決がもたらされるか、たとえばラオスが米中の戦場として好ましい場所か否か、それだけの問題にすぎない、とまで思われていた。

ジュネーブ協定との折り合い

6月を迎えようとする頃、南ヴェトナム国内は比較的平穏を保っているように見えたがヴェトコンはいつでも望めば活動を強化できる態勢にあった。地方官僚は不足し多くの学校が閉鎖に追い込まれていた。軍も政府も士気は低下していたし、農民は不満をつのらせ米が不足していた。この頃の最大の問題はジェム政権が叛徒を打ち破れるかどうかではなく、自らを救えるかどうかであったと「ペンタゴンペーパーズ」は述べる。5月末北ヴェトナムの副首相であり国防大臣を兼ねるボー・グエン・ザップ将軍は国際監視委員会に、アメリカの援助や軍事顧問団の増強は、明らかなジュネーブ協定の違反であると告発した。各国からは米軍事顧問の増員についての問い合わせが激増してアメリカのこれまで受け流していた態度が、うまくいくのも時間の問題に見えてきた。だからといっていまさら、装備人員の導入や南ヴェトナム軍の増強を思いとどまるわけにはいかなかったし、ジュネーブ協定を真っ向から否定するのもうまくなかった。ジュネーブ協定と国際監視委員会には敵の行動をいくらかでも抑止できる力があり、残しておく価値があると判断されていたのである。ワシントンは、相手側がすでに協定に違反し、国際監視委員会が機能不全に陥っている以上、もはやこちら側が拘束される理由はないとした。国際法の原則に照らしても、当事者の一方が違反すればもう一方にも合意遵守の義務もなくなるのであり、南ヴェトナム政府は独立を守るために当然の自衛権の行使を妨げられないはずであった。しかし同時にアメリカには国際監視委員会を崩壊させるつもりも無かった。相手側が協定違反をやめさえすれば直ちにこちらも協定を遵守する姿勢に戻る、という態度をとったのである。つまりアメリカは「ジュネーブ協定を破棄することはしないが、北ヴェトナムが違反しているにもかかわらず協定の全項目を遵守することで、手足を縛られることも望まない」という立場であった。

直接対話へ

ケネディ政権はその船出から世界中に大きな問題を抱えていた、ラオス問題しかり、コンゴ問題しかり、キューバも自国の喉元にひっかかる小骨であった、それにもましてベルリン問題は世界の平和を脅かしかねない問題であった。これらのすべての問題はたった一つの原因「資本主義対共産主義」の命題に突き当たるのである。このマグマはいまや世界の各地の亀裂からその姿を現そうとしていた「どうすればこの大転換期において正面衝突を避けうるのか」この問題は一人ケネディの頭で決着がつくものではなかった、まさに米ソ二大国の直接対話の道以外には方法がなかった。「機は熟していた」のである。ついに1961年6月3日、古都ウイーンにおいて米ソ頂上会談が開かれることになったのである。
ケネディはウイーン会談に先だって5月31日パリを訪ねド・ゴール大統領との会談に臨んだ。今回のウイーン会談の中心議題の一つであるラオス問題に関しては、旧宗主国でもあるフランスの影響力は強くケネディの模索する「中立化構想」の実現のためにもフランスの協力は重要であった。ド・ゴール大統領は1954年のジュネーブ協定に戻るしかないという意見であったが、ケネディはそれすら「もう不可能な状態ではないか」と懸念をしめした。ド・ゴールは、中立派のスパナン・プーマはやがて共産主義者と距離を置くようになるだろうと予測した。ケネディも、プーマを首班とする連合政府が「たいして好ましくはないことは明らかであるが、それでも現在可能な最善の解決策かもしれない」と認めた、プーマを首班とする政府の樹立にはなんとか合意に達したのである。しかしド・ゴールはSEATOがラオスに対して行動を起こすことには反対した。そもそも「ラオスを強固な存在に変えられる」などと考えることなどは「不幸な幻想」であるとまで言い、あそこは「政治的にも民族的にも統一などない不幸な国」だ、それどころか実在の国家ですらない「幻想の国」であり、まともな国に作り変えるなど不可能な土地でしかない。ましてやそこで戦うなどということは論外であると述べている。そもそもラオスに限らず、東南アジアじたい、西側が戦うには適した場所ではない、もしこの地域に西側の影響力を持ち続けるとすれば、それは強力な軍事介入をしなかった場合に限られるであろう、こちらが介入しなければソ連も介入しないであろうし、そうなれば東南アジアは中立化の方向に向かうであろう、こちらに残された手はそれしかないと主張したのである。ケネディは反論した、西側が介入しないと敵が確信すれば、こちらに受け入れられるような協定に彼らが合意することもないであろう。現実に敵はメコン川沿いの諸都市をいつでも好きな時に占領できる力を持っている。右派勢力のふがいない戦いぶりである以上、多少でもましな協定を実現しようと思えば「西側の軍事介入の恐怖」を敵に与えるしかない。二人の主張は最後まで平行線をたどったままであった。ケネディはさらに、「問題はヴェトナムとタイをどうするか」だと述べた。この両国をアメリカが見捨てれば、フィリピンや韓国、日本でも反動が生まれる危険性があったからである。しかしド・ゴールは「いったん民族が目覚めた以上、いかなる外国勢力であろうと、またどのような手段を用いようとも、けしてその地を支配し得ぬ」と指摘し、もしアメリカが介入すれば「一歩一歩、軍事的にも政治的にも、底無しの泥沼に入り込むだけだ」と予言している。ケネディは納得できないままウイーンに向かった。後にケネディは「苦痛に満ちたフランスの経験から、この地域(東南アジア)で戦うことがいかに難しいか、彼は実感をこめて私に語った」と述懐している。ちょうど10年前、そのフランスの苦悩を自らヴェトナムの地で目撃し、けして同じ罠にはままるまいと決意した若き下院議員が、いまや大統領として、アメリカをヴェトナム防衛の道に歩み出させる歴史のめぐり合わせは、「ニューヨークタイムズ紙」のアーサー・クロックに言わせれば、まさに「歴史の最も残酷な皮肉のひとつ」であったのかもしれない。



■ 下院議員としてヴェトナムを訪ねたケネディ(最後列に見える)