ウイーンの対決


1961年6月3日、古都ウイーンでケネディ、フルシチョフの初の首脳会談が開催された。1959年にフルシチョフが訪米し、上院外交委員会を訪ねたときに,、ごく短時間顔を合わせて以来、それは二度目の、そして最後の出会いとなった。1960年5月の東西四大国パリ首脳会談の流産以後(U2撃墜事件で流会)フルシチョフはアイゼンハワーとの交渉に見切りをつけていた、だからフルシチョフはケネディの当選直後からしきりに接触を求めていたのである。しかしケネディは具体的成果の見通しのない首脳会談にはあまり気が進まなかったと言われている。重要なことは言葉ではなく行動であると言うのがケネディの信条でもあったからである。特に今は時期が悪すぎた、四月のピッグス湾事件からまもなく、若さを全世界に露呈した感の有る今では時期が悪いとラスク長官を筆頭として国務省内からも強い懸念が表明されていたのである。しかし地平線に沸き起こるベルリンの暗雲を振り払い、世界各地で動き出す民族解放をうたった共産主義の侵略をとどめるためにも、さらには冷戦の激化を反映して、米議会では実験再開を求める圧力が高まっていたため、これら議会の圧力に抵抗するためにも(1958年以来米ソともに核実験を自粛していた)フルシチョフと何らかの合意に達する必要にも迫られていたのある。いまやケネディ自身の思惑を言っていられる時期ではなかった。ケネディはフルシチョフと会わなければならなかったのである。ケネディにとって米ソ関係の最重要課題は、両国が「どうすればこの大転換期において正面衝突を避けることができるか」の一点に絞られていた。この課題をフルシチョフとともに考える必要があったのである。後にキューバ危機の直後ケネディはテレビのインタビューに答えて、米ソ平和的競争、共存の前提として「アメリカには死活的利益というものがあり、そのためには戦いも辞さない」ことをフルシチョフは理解すべきである。と述べている。ウイーン会談はそれをフルシチョフに本当に納得させる最初の機会であった。

米ソ合意への道

ケネディは会談に臨んで、核戦争の回避という米ソの利害が本当に一致するはずの点を強調するつもりであった。同時に、ラオスやヴェトナムなどで共産側が民族解放戦争の名のもとに推し進めている侵略を問題にしようとしていた。彼らが第三世界で自制しない限り、米ソ平和共存どころかいつかは核による人類破滅がもたらされるであろう事をフルシチョフに知らしめようとした。第三世界の革命は、いずれ米ソいずれにも属さない独自の道を歩み始めるに違いないとケネディは確信していた。とするならば、そこで米ソが争いを演じることは得策ではなく、むしろ手を携えて新興諸国の勢いを封じ込める事こそが双方にとって望ましい。特に第三世界での中国の影響力の拡大の危険を強調すれば、安定的な国際秩序樹立の必要をソ連も認めるかもしれなかった。仮に米ソ両国首脳がすぐに合意に達することができなくても、少なくともフルシチョフの考え方を把握できれば、今後の政策形成に有益になるはずであった。ケネディにとってウイーン会議は1月6日のフルシチョフ演説の本当の意味するところが何なのかを知ることに他ならなかった。ケネディはフルシチョフが歴代のロシアやソ連の指導者たちと同様に、自国の安全保障の維持に強い関心を持ち、西側との直接対決には慎重であること、軍縮交渉にも協力姿勢を示していることに希望を抱いてウイーンにやってきた、しかしその希望は無残にも打ち砕かれてしまう。会談は終始とげとげしい雰囲気で進み、ほとんど具体的な合意に達することはできなかったのである。
フルシチョフは1956年、彼自身が行ったスターリン批判に刺激された東欧諸国の動揺を防ぐため、ハンガリーに戦車を送り込むこと躊躇しなかった人物である。その彼から見れば、キューバでのケネディの行動は実に中途半端で優柔不断極まりないものであった。ロバート・ケネディに言わせると、ケネディは「キューバを粉砕することに米軍を用いなかったという事実は、フルシチョフの目から見れば未熟な経験不足の人間に見えたのだろう」。フルシチョフにとってみればケネディは「少々こずきまわしても構わない」相手だったのかもしれない。ただ、フルシチョフといえども、ケネディを痛めつけるためだけにウイーンにやって来たわけではない。当然フルシチョフはアメリカのキューバにたいする干渉を非難もしたが同時に、ラオスやコンゴの紛争を平和的に解決したいし、核実験禁止合意に向けた米ソ協調の必要性をも訴えたのである。フルシチョフは会談後も、米ソ間に最近生じた意見の相違は時間と共に解消されようし、ソ連とアメリカの関係も、互いにその意欲さえ示されれば改善されよう、と期待を表明している。マクナマラ国防長官はビックス湾事件以降のフルシチョフは「侮辱的でもあり和解的でもあった」と述べる。フルシチョフの差し出すオリーブの枝と矢のいずれを手にするかは、むしろ、ケネディの側に委ねられていたとも言えた。

平和共存とは

ウイーン会談に臨むはるか以前からケネディは「これからの10年間に世界の力の均衡が決まる」と確信していた。この会談でケネディはフルシチョフに、アジアやアフリカのような地域が今後どのような変化を見せるか誰もわからないと述べる、そうした変化を完全に封じ込めることは困難であるにしても、その事が米ソの安全を脅かすような事態は避けなければならなかった。ケネディによれば、そのためには第一に「自由な選択を行う権利が全ての国民に保障される」第二に、「アメリカの戦略上の利益が守られねばならない。」そして第三に「次の10年間が、力の均衡をあまり大きく崩さないような形で進むこと」が肝要であると述べた。現状では米ソの力がほぼ均衡状態にあると認めた上で、その現状をむやみに変えることは非常に危険でであると述べている。この発言がアメリカの絶対的優位を信じる統合参謀本部の怒りを買うことになるのであるが、フルシチョフはこのケネディの見方に同調した。世界のさまざまな問題には米ソの威信と国益がかかわっており「大変な抑制が必要である、われわれは互いの爪先を踏むべきではないし大国小国を問わず、ほかの諸国の権利を侵害すべきでもない」と応じたのである、それは少なからずケネディに希望を与えた。しかしこの平和共存の捕らえ方自体に大きな隔たりがあることにケネディは気がついていなかった。フルシチョフに言わせればケネディのいう平和共存とは、すべての国の現状を凍結するものであり、しかもその「現状」の意味するところが米ソではまったく違っているのである。第二次世界大戦の国境の改変も、国内体制の変更も一切否定するケネディの考え方はフルシチョフにとっては絶対に受け入れる事ができないことであった。ではフルシチョフの言うところ平和共存とは何か、ソ連も含めた共産陣営内部へのあらゆる干渉を排除し、その上でソ連が自由裁量権を確保することにあった、しかも共産陣営以外の地域で展開される民族解放戦争はその国民の意思による選択でありこれに干渉することはできないと主張し、その国民の選択をソ連が支援することに何の不都合があるのか、という論理であった。その上での平和共存であり、米ソ協力なのである。
ケネディにしてみれば、最大の問題はフルシチョフが世界に革命と言う名の変化を強要していることであった、ケネディはソ連政府がどのような思想を信奉しようが勝手であるがただ「世界中の問題に干渉することはやめていただきたい」と言う。たとえばヴェトナムには約7000人から15000人のゲリラがいる。ソ連は彼らが国民の意思を反映していると考えるかもしれないがわが国はそうは考えない。問題はそれぞれが別のグループを支援する際に、直接の衝突を回避することである。ラオスでも、本当の問題は「双方がたがいに満足のいくような形で」紛争解決の道を見つけることにあると主張した。しかしフルシチョフは、第三世界諸国はソ連や共産主義思想に魅力を感じているのだ。思想に歯止めはかけられない。民族解放闘争への支援をやめるなどとはとんでもない、と突っぱね。革命が勝利するのは民衆がその味方をするからであり、もし米ソが衝突するとすれば、アメリカが旧態依然、滅亡寸前の反動政権を支援するからであるとにべもなかった。ただ、フルシチョフも「そのような事態を望んでいるわけではない」と述べている。米ソの無用な対決を避け、それぞれの影響や利害の及ぶ範囲にのみ力を集中すればよいというルールの確立は、絶望とは言えないまでもまだまだ遠い先のようであった。アメリカは中ソの対立を利用して、米ソ協力による世界秩序の安定化を進めようとした。しかしソ連はまだ中国とは絶縁しておらず、アメリカとの結婚には踏み切れなかったのである。

寒い冬の予感

ウイーン会談の終了直後、ケネディがフルシチョフとの別れ際に「今年の冬は寒い冬となるであろう」とつぶやいたことはあまりにも有名な話であるが、事実ケネディは1961年後半に向けて「寒い冬」の到来をひしひしと予感していた。とりわけ二人はベルリン問題で激しくやりあった。フルシチョフはかねてよりベルリンおよびドイツ問題の解決に「彼の個人的威信とソ連の威信を大きく賭けていた」のである。パリにおいてド・ゴールはケネディにたいして「フルシチョフがベルリンで脅しをかけてくるのは毎度の事だ」と助言していたがケネディはフルシチョフが「われわれの決意のほどを信じない可能性」への強い懸念を表明し、ド・ゴールも西側の断固たる姿勢をフルシチョフに理解させる必要性は認めていた。フルシチョフはウイーン会談でケネディに1961年末までに東ドイツと平和条約を結ぶと言明し「この世界で最も危険な地点を正常な状態に戻す」と言い張った。確かにドイツの現状は「異常」ではあるが、だからと言って「一夜にして根底から変化させ、わが国が他の西側諸国と共有している権利を奪うことは戦争行為に他ならない」とケネディは反論した。ケネディは、ベルリン問題でアメリカがソ連の提案を受け入れてしまえば「アメリカの公約はたんなる紙屑と見られるようになる」とも述べ、米ソ二大国の指導者が負っている責任を強調するケネディに対してフルシチョフは「もしアメリカがベルリンを巡って戦争をはじめるのであれば、ソ連は何もできない」とそっけなかった。フルシチョフの強硬姿勢にケネディは絶望的な気持ちになった。「新たな、それもたぶんかつてないほど深刻な危機」の到来を予感させるものであった。ケネディは民主党の大先輩でもあるディン・アチソン元国務長官に助言を求めた。アチソンによれば、ベルリン危機は「この都市をめぐる問題よりもはるかに大きな意味を持つ、意思と意思の抗争になるであろう」と忠告した。ソ連の一方的な行動を黙認するつもりは無いという西側の一体となった決意を示す必要があったのである。ウイーン会談はこうして1961年夏のベルリン危機の序曲となっていく。