ウイーン会談と東南アジア


ウイーン会談においてケネディは「ベルリンの囚人」であった。たしかにそれは会談の焦点のひとつではあった。しかしケネディはソ連および共産勢力が「西側の力と意思を試す」とみなす、東南アジアにも注意を払わないわけには行かなかった。ラオス交渉が進行中であったが、その場でものをいうのも、言葉ではなく力のはずであったからである。もしラオス休戦が頓挫するか、共産側が休戦協定を破棄して攻撃を開始した場合、アメリカはまず即時停戦や国際監視委員会の設立などを盛り込んだ決議案を国連安保理事会に提出し、ラオスに派兵する予定であった。介入の理由には事欠かなかった、何もしなければ共産主義の侵略に断固抵抗するといったアメリカの決意に疑念を生じさせ、共産主義に優位な潮流はいまや止めることができなくなったという危険な見方が世界中に広まる恐れがあり中ソは今後世界中で好戦的な政策を追求できると考え、アメリカの公約や防衛条約など信じなくなるだろう。アジアの中立国は「虎をおとなしくさせるには餌を与えねばならない」とばかりに北京との和解を求めるようになるであろう。もちろん危険もあった内戦の一方に加担する介入はアジア諸国全体の広範な部分の支持を得ているとは言い難い。戦おうともしない優柔不断な右派勢力を支援して戦うことも、ラオスのような地勢や気候のもとで戦うことも決して好ましいことではない。.ロバート・ケネディに言わせると「こちらが一人送るごとに共産側は五人を送り込める、ラオスで勝とうととすれば原爆を使うしかなく、中ソとの大規模な核戦争を遂行する用意が必要がある」ことになる。たとえ介入してもラオスの共産化を阻止できるかどうかは疑問であり、たとえ核を使用しないまでも、まず北ヴェトナム、次いで中国との交戦によって紛争が拡大する危険は否定できないのである。つまり、積極介入を声高に叫ぶ連中は、関係諸国の反応や介入失敗の危険などほとんど顧慮しないまま「全力を投入して戦うか、あるいは全く手を引くか」の二者択一を大統領にせまっているのである。

ラオス問題

ウイーンにおいてアメリカは、ラオス危機の原因は共産側の侵略であり、反乱軍に物資の空輸を続けるソ連が平和共存を主張しても真剣に受け取るわけにはいかない、ラオスの独立を守るためあくまでもパテトラオ鎮圧を支援するという立場であった。ソ連は、ラオス危機の責任はアメリカの内政干渉とジュネーブ協定の蹂躙にあると主張した。アメリカがパテトラオの攻撃が続いていると指摘し国際的な休戦監視体制作りを提案するのに対しソ連は現在の戦闘は小競り合い程度のもので実質的な休戦協定は実効化していると主張して連合政府樹立と早期の選挙実施を要求した。国際監視委員会についてはアメリカが全会一致を主張すればソ連は多数決方式を主張したし、武器や兵員などの外部からの搬入はアメリカは即時停止、ソ連は満足のゆく協定成立が先決であると主張する。
これほどの食い違いの壁を乗り越えて米ソ両首脳がラオス和平のために歩み寄れるか。米ソが共通の利益にめざめ、手を携えてラオスといわず、広くアジアで中国の膨張を抑制できるのか、世界的規模で安定した国際秩序を打ち立てられるのか。ケネディとフルシチョフが顔をあわせたウイーン会談は、こうしたいくつかの点でまさに試金石と言うべき意味を持っていた。もしラオス中立化で合意が成立すれば、そこから軍縮交渉の前進、核実験停止条約の締結、東西間の貿易拡大、文化交流、科学協力などの促進、ドイツ問題の解決などに合意点が広がることも夢ではなかった。こうした餌にフルシチョフという大魚が食らいつくかどうか、たいして期待はできないが念押ししておく価値は十分にあった。
この頃東南アジア情勢に神経を尖らせていたロストウ国家安全保障担当大統領特別補佐官代理やアレクシス・ジョンソン政治担当国務次官代理・ヤング駐タイ大使達は、ラオスよりもむしろヴェトナムに注目していた。なぜなら、ヴェトナムこそが将来を戦争か平和かを決めるいくつかのテストケースのひとつと感じていたからである。ヴェトナムで起きていることは、正当な政府の粉砕を目指す組織的な共産主義者の活動であり、アメリカに対する挑戦であった。ラオスと同様、ヴェトナムはたしかに米ソ抗争からすれば、外縁部に存在する国に過ぎなかったが、この国の問題がどのように解決されるかは、今後数年間、あるいはそれ以上にわたって米ソ関係に甚大な影響を及ぼしかねない重大な意味をもっていると感じていたからである。


交渉解決の提案

ウイーン会談でケネディは、ラオスは戦略的にはさして重要ではなく、双方の側にとって死活的な問題でもないと、すなおに認めた。しかしそれでもアメリカにはこの国に対して条約その他のコミットメントが存在する、しかもパテトラオが国外から補給を受け、北ヴェトナムの兵力に支えられていること、それが問題なのだと強調した。フルシチョフは、ソ連の支援はラオスの正当な政府を代表するスバンナ・プーマの要請によるものであり「ラオスの現状を作り出したのはアメリカだ」と強硬であった。休戦も大事ではあるがそれ以上にラオス三派の合意実現が重要であると主張したのである。
それでもフルシチョフは、ラオスは「ソ連国境からはあまりにも遠い」と認め、さらに「ソ連はラオスにたいしてまったくコミットメントしておらず、この地域に何ひとつの義務も存在していないし今後もそのつもりは無い」としてラオスの中立と独立を維持する方向に同意した。思いのほか柔軟なフルシチョフの態度にケネディも、アメリカはラオスへのコミットメントをむしろ減らしたいのだと、率直に語っている。二人はラオスが米ソ二大国を巻き込むほど重要なところではないと言う点で一致したのである。
ついに1961年6月11日、ラオス国民統一政府樹立が発表され、22日には新政府の構成などで左右、中立の各派の合意がなり、スバンナ・プーマがその首班に任命されたのである。しかしジュネーブでは中立ラオスのあるべき枠組みについてまったく妥協成立の可能性は見えず、アメリカはソ連の意図に疑念を深めるばかりであった。ソ連のグロムイコ外相は「ジュネーブ湖畔にいつまでも座って、白鳥が何羽いるのか数えているほど暇ではない」と苛立ちをあらわにしていた。現地ラオスでも政権内部の主導権争いは沈静化せず不安定な状態が今後も続くことになる。6月末、国家安全保障会議のメンバーでもあるロバート・ジョンソンはロストウに対して、ラオス南部が失われれば南ヴェトナムとタイの防衛はますます難しくなると力説し、ラスク国務長官はノサバン将軍にたいし「アメリカはラオス一国に対してではなく東南アジア全土に関心をいだいているのであり、ラオス問題の推移は必ずやタイ、カンボジア、南ヴェトナムに影響するはずだ、そうなれば東南アジアの動向が世界情勢にも影響を及ぼすことは間違いない」と述べている。一方南ヴェトナムやタイの代表団は西側はラオス休戦問題で敗北したも同然だとこぼしていた。ノサバンも、このままでは、交渉による解決とは中立派のプーマと左派のスファヌボンに対する、ほぼ完全な降伏以外はありえないと断言した。真の意味でのラオス問題の解決はSEATOもしくはアメリカの強い支援によって軍事情勢の均衡を取り戻さない限り、交渉などそもそも不可能なのであった。

ベルリンとヴェトナム

ロストウは、マクナマラ国防長官に、今はタイ防衛を考えるべきときであり「ヴェトナムは後で良い」と書き送っている。特に重要なのはラオスに接するタイ北東部であり、そこでのゲリラ抑止作戦を確実に実施することが最重要優先課題だと主張したのである。ヴェトナムを後回しにするかどうかは別として、ラオス危機収束以降の反共の防壁を早急に東南アジアのどこかに建設する準備にはいらなければならない時期に来ていることだけは間違いなかった。タイであれヴェトナムであれ、アメリカの東南アジア直接介入は不可避であったと、後に在ヴェトナム米軍事援助司令官となるウイリアム・ウエストモーランド将軍は述懐している。すべての流れは共産側に有利に流れており、アメリカとしてはあらゆる手段をもって「潮の流れを変えなければ」ならなかったのである。ロストウは言う、今は丁度、第二次世界大戦最中の1942年に酷似している、当時、ヨーロッパでも太平洋でも全ての流れは枢軸側にあり自由陣営は防戦一方であった、ところが、ガタルカナル、ミッドウエー、スターリングラード、アレクサンドリアでの勝利が戦いの流れを大きく変えた。これと同様に1961年には大きな戦場で勝利し共産主義の流れを変えて、我々の最後の勝利に結びつける場所を選ばなければならないと。ロストウは続けて「その戦場とは、ベルリンとヴェトナムである」と宣言したのである。
ワシントンの懸念は、ベルリン危機の高まりと歩調をあわせて共産陣営がヴェトナムで侵略の動きを増大させることに有った。ラオスにおいてアメリカは、懸命にラオス人達を反共の戦士に仕立て上げようと努力した、しかし結果は温和なラオス人にはとても無理のようであった。対照的にヴェトナム人は過去において北方の中国からの支配に繰り返し抵抗してきた歴史がある。フルブライト上院議員は「ラオスを反共の砦に仕立てようとしたのは誤りであったが、南ヴェトナムは大丈夫だ」と語っている。いよいよヴェトナムに東南アジアという舞台のなかで本当の主役の座が与えられようとしていたのである。