ラオスとヴェトナム


ケネディ政権の中にあってロストウは何にもまして北ヴェトナムから南ヴェトナムへの浸透経路、特にラオスを経由する道の遮断を優先することを主張した人物であった。もっとも、それは彼ひとりではなく、ラスク国務長官もインドのネルー首相に「ラオスの共産主義者は同時にヴェトナム労働党の党員でもあり、地理的にも北ヴェトナムからの浸透を容易にしている」と語っている。CIAによれば、6月だけで1500人の要員、その多くは南出身の者であるが、ラオス経由で南ヴェトナムにやってきた。同月、500名が北ヴェトナムから訓練のため中ソに赴き、ゲリラ組織強化のため幹部がハノイを出発したと言う。5月以降、海路からの浸透遮断の為に、沿岸、港湾、河川の警備にあたるジャンク(小舟)部隊が南ヴェトナム軍に創設され、訓練も強化された。ジョンソン国務次官代理は北の侵略の証拠をまず国際監視委員会に、ついで国連に持ち出すことを提案し、南ヴェトナム政府もその準備を始めた、2、3ヶ月もあればヴェトコンのゲリラ浸透の証拠もそろい、国連を味方にできるだろうと、ロストウは考えた。ヴェトナム特別作業班はヴェトナムの真実を世界に知らせるべく、国務省がCIAと協力して証拠集めを進めるよう求めた。南ヴェトナム政府もサイゴン米代表部もVOA放送やライフ誌などの取材に全面協力してヴェトコン捕虜の肉声テープなどを進んで提供した。北の行動を抑制し国境監視への支援も含め南ヴェトナムの国際的立場を改善する、などの効果が期待されたのである。ランズデール准将は、北ヴェトナムが、東南アジアで最大の38万の近代化された兵力を擁することにテイラー将軍に注意を喚起した、南ヴェトナムは「反乱と言う国内問題」に苦しんでいるが同時に「外からの脅威も無視できない」というのである。南ヴェトナムのグエン・ゴク・ト副大統領は7月初め、南ヴェトナムが共産軍に侵略されてもアメリカが反撃してくれないのではないかという懸念が、国内に広まっているとランズデールに伝えていたのである。これらの不安を封じるには「形式的な米戦闘部隊」を駐留させるか「相互防衛条約」を締結するしかなかった。いずれの場合も議会や国民の支持が必要であり、その為にも北からの浸透と言う事実を世界に証明する必要があった。

交渉の為の戦争

7月半ば過ぎ、ジュネーブ会議はいよいよ中立ラオスをめぐって、駆け引きと妥協の重大局面を迎えようとしていた。しかし共産側が中立ラオスを本気で求めているとは見えなかったし、それ以前に、そもそも敵陣営には軍事的にも政治的にも譲歩する理由が全く無かったのである、ケネディは、遅かれ早かれスバンナ(プーマ)政権を受け入れなくてはならなくなるだろうと悲観しながらも、一縷の望みを抱いてノサバン勢力の建て直しを測ろうとした。すでに戦場では休戦がもたらされていたが、敵のパテトラオ軍は、ラオス陸軍(ノサバン勢力側)の効果的な反撃にあうことなく、あらゆる戦場において前進可能な状態にあった。ロストウとジョンソンは、ラオス交渉の結果を最終的に決めるのは、アメリカが東南アジア軍事介入計画を持っているかどうかにかかっていると言う点で一致していた。アメリカがこれ以上交渉を進めても益なしと判断したとき、本当にラオスに軍事介入するつもりだとフルシチョフが信じるかどうか、それがカギなのである。大統領軍事顧問に就任したばかりのテイラー将軍は、敵の戦術が通常戦争であろうとゲリラ戦であろうと南ヴェトナムやタイ、しいては東南アジア全域を共産支配から守るためには「メコン峡谷とラオス中部および南部の十分な範囲を」を確保しなければならない。それには北部ラオスや北ヴェトナムに空から攻撃を加え、あるいはそこで西側がゲリラ戦を展開する必要が生じるかもしれない、それでもアメリカは北ヴェトナム領内の重要目標に対する海上からの軍事作戦をちらつかせ、必要とあれば実際に敢行する能力を持ち続けなければならない」と主張した。さらに、北ヴェトナムからラオス中部および南部を経由した南への浸透にはこのままでは十分対処できないので「南ヴェトナムの側面を援護できて、北部での作戦を支援できる安全な基地をラオス南部に確立することが急務である」とも述べたのである。またロストウも、アメリカが無意味な協定を受け入れるくらいなら戦うつもりでいることを相手側が納得しない限り、理にかなった、満足できる解決がなされる可能性はほとんど無いとしてケネディに対してラオス介入を訴えた。しかし何度目かのラオス軍事直接介入の大合唱にたいしても、ケネディはついに首をたてに振らなかったのである。 かと言ってワシントンの誰しもがラオス介入に傾いていたわけではなかった。ワシントンに招かれたダグラス・マッカーサー元帥はケネディらを前に「ドミノ理論など、核時代には単なるたわごとに過ぎない」と断言したし、フルブライト上院外交委員長も、東南アジア過剰介入への懸念を表明した。ケディは当面ジュネーブ会議の前進を図るべきであるとの見解を表明したし、アメリカ国民もラオス介入を望んではいなかった。その上、軍事介入が現実問題として可能かどうかの判断もつかなかった。もちろん、介入の可能性を完全に放棄したわけでもなく、現地の事情などを正確に把握したうえで、慎重な検討を進めるように指示していたのである。

反共の最前線

ロストウは、ヴェトナムの戦いはまだどちらに転ぶかわからない状態だが不利な要因が増大しつつあるようだと危惧を深めていた。そのころ国内では共和党の次期大統領候補と目されていたバリー・ゴールドウオーター上院議員が、派手な政権攻撃を展開していた。彼はケネディ政権が間違った方向に流され冷戦の主要な戦線でことごとく無為無策だったと決め付け、時代遅れの弱腰外交のために、自由世界の領土は今後ますます国際共産主義勢力の手に奪われてしまうであろう、と糾弾の声を上げていた。こうした批判を封じるためにも、ケネディはヴェトナムという舞台で何らかの前進を勝ち取る必要に迫られていた。ボウルズ国務次官によれば、ヴェトナムに限らずアメリカがアジアで直面する全ての問題の中心に巣食うのは、巨大な「共産中国の存在」であるとし、共産主義拡大に情熱を燃やす中国は「その周辺諸国すべてにとっての脅威」となっていると指摘する。さらに進んで、南ヴェトナム、ラオスはもちろんのことタイ、カンボジアまたそれ以外の国々、たとえば韓国や台湾などの国々の国民に共産主義と戦う意欲が欠けていることが問題であり、その原因は「アメリカ自身が支える現在の反動的な社会」にあると指摘するのである。しかしこれらの考え方はワシントンでは片隅に追いやられつつあった。たとえば軍事的に最も差し迫った問題への対応。すなはち「北ヴェトナムの支援と鼓舞を受けながら現在ヴェトナムの国境内部で反乱活動を展開している、約一万二千人のヴェトコンゲリラ勢力を破壊し、除去すること」だ、という判断が支配的であったからである。ヴェトコンの活動は、共産陣営にヴェトナム全土が併呑される、危険極まりない「序曲」とみなされていたのである。
こうした危険の増大に、これまで南ヴェトナム政府軍の連隊から大隊レベルで活動してた米軍事顧問団は、大隊ないしは中隊レベルの作戦行動にまで同行するようになっていた。彼らは危険地帯を避けて行動し、訓練や助言は与えても戦闘はしないという建前であった、しかしマクガー軍事援助顧問団長はジェム大統領に、ヴェトナム側が米軍事顧問の身の安全を顧慮するあまり任務遂行に障害が出ているとして、より積極的に能力を発揮したいと述べている。とはいっても、まだ米戦闘部隊の導入といった思い切った処置をとるほどには機は熟してはいなかったし、ヴェトナムでアメリカの存在が目に付く事は、まだ避けたほうが賢明に思えた。ジュネーブ協定違反という非難を呼ぶことが懸念されたし、何よりも外国軍隊の駐留を南ヴェトナムの民衆が嫌悪していたからである。

軍事作戦の光と影

もうひとつ米戦闘部隊の導入を抑止できた要因のひとつにようやく南ヴェトナム情勢に燭光が見え始めたことがあった。1961年夏、南ヴェトナム政府は組織改革や腐敗追放運動を進め、反政府派への態度を軟化させ、カンボジアとの関係改善や南ヴェトナムの国際的立場の向上にも尽力していた。軍事面でも、民兵である民間防衛隊の国防省移管や野戦司令部の活性化など、明確な指揮系統の確立を目指して「本当の進歩」が生まれつつあるように思えた。兵士の訓練や作戦行動面での欠陥は改善され、地上部隊も迅速に動くようになり、ヘリコプターを使った特殊部隊の訓練も進んだ。確かにこうした成果は「作戦行動が本当に変化するための基礎」に過ぎず、真の改善には、まだまだ時間がかかるはずであったが、それでも南ヴェトナム政府軍は「合理的に期待できる最大限の速度で進歩を遂げている」とマクガー将軍は鼻高々であった。しかし現実はそれほど甘くなかった。7月8日帰宅途中のノルディング大使の車に手榴弾が投げ込まれるという事件が起こった。幸い手榴弾は不発に終わり事なきを得たが、不安の雲が徐々にその姿を現しつつあった。その前日にはサイゴン郊外で、米経済援助使節団幹部の車が襲撃されている、このときは目撃者が証言を拒んだために、犯人の特定すらできなかった。ヴェトコンは南ヴェトナム各地で政府もどきの組織を作り、税を徴収し、通貨を発行し、コメを入手していた。ノルディングは「実際の治安状況は、数ヶ月前に比べていささかでも改善されたとは思えない」と認めざるを得なかった。ヴェトコンの半数はまともな武器も持たないとも報じられたが、たとえそうであったとしても、この頃のヴェトコンは全土の20%を完全に支配し、残りの40%でも活発に行動していたのである。