ベルリンの暗雲


1961年夏。ケネディはラオス、ヴェトナム情勢への懸念を日ごとに深めていたが、それ以前に対処しなければならない問題があった。それはベルリンである。西ベルリンは東ドイツ領内、つまり共産圏のなかの孤島であったが、同時に西側の民主主義体制や、資本主義に基ずく経済発展のショーウインドウでもあった。だからこそフルシチョフは1958年以来、手を変え品を変えて米英仏三国の勢力を駆逐しようとしていた。アメリカはこの夏1939年の第二次世界大戦勃発の年以来最も危機的状況に直面していた、この時期ケネディと会見した誰しもが、大統領の表情に、政権発足以来かつてないほど暗い雰囲気をかんじていた。ケネディの心を悩ませていたのは、アメリカの通常戦力が不十分で、現実に採りうる軍事的手段が極めて限られていることであった。マクナマラ国防長官は8月末、ベルリン派兵の可能性が存在する以上、米軍を東南アジアに釘づけにはできないと述べている。この時期のアメリカには、ベルリンと東南アジア、二つの危機に同時に対処する能力は事実上無かったのである。
ブラント西ベルリン市長は10月に開催されるソ連共産党大会に先立って、おそらくは8月中には、何らかの行動にソ連が出るであろう事を予測し、駐ソ米大使レヴェリン・トンプソンは、フルシチョフは今年中に東ドイツと単独平和条約を結ぶであろうと述べ、ビッグス湾事件で情報の収集、分析に醜態を演じたCIAでさえ、4月下旬の段階で「比較的近い将来」のベルリン危機発生を警告していたのである。早急なベルリン対策を求める大統領の元には、実に43日間を費やしたあげくに、1958年以来の出来事を列挙した冗長な文書が届けられ、ケネディを激怒させた。ロバートに言わせれば、国務省からは「不明瞭きわまりない」提言しかもたらされず、ケネディの官僚不信はつのる一方であった。7月末、かつて高等弁務官としてベルリンに駐在し、現在は軍縮担当の大統領補佐官となっているジョン・マックロイがフルシチョフを訪ねた、そこでフルシチョフは「いかなる条件のもとでも」東ドイツとの平和条約を締結し、西ベルリンをいわば窒息させる決意をあらためて示した。マックロイはフルシチョフに対し、もし閣下が本気であるのならば「我々にできることは何もない」がしかし、西ベルリンにおける権利はアメリカの威信に直結しており、決してゆるがせには出来ない。というケネディの姿勢をフルシチョフに伝えた。

構築された壁

ラスク国務長官、ボウルズ国務次官、ハリマン元駐ソ大使ら外交畑の人間達や、フルブライト上院外交委員長、マンスフィールド民主党上院院内総務らの議会首脳たちはケネディに対して、ベルリンにおいて慎重な態度を求めた、ベルリンでソ連と対決するにしても、まず「低い音から始めるべき」であると言う態度であった。それに対し、ディン・アチソン元国務長官、ダレスCIA長官、MITからホワイトハウスいりした経済学者のウオルト・ロストウ達、さらには統合参謀本部や国防省の多くは、いまこそ断固たる対応を取るべき時であると進言してきているのである。当時の世論調査は、全国民の85%の国民は「ベルリンを守る為には対ソ戦争も辞さず」との覚悟であった。急速な危機の高まりに、東ドイツ各地から東ベルリンへ、そこから西ベルリンへ、そして西ドイツへと逃亡する人たちが激増していった。当時東ベルリンでは、駐車している車はすべて西ベルリンの方向を向いていたともいわれている。これらの流れを食い止めるために、8月13日未明、フルシチョフと東ドイツの指導者ワルター・ウルブリヒト国家評議会議長は、東西ベルリンの境界に壁を建設し始めたのである。
ケネディは予備役を召集動員する一方、ジョンソン副大統領や48年ベルリン危機の英雄ルシアス・クレイ将軍を特使として派遣し、あくまでもベルリン死守の決意を表した。さらにケネディは具体的な行動として1961年8月20日、西ドイツ・サンドホーフェン基地から、アメリカ増派部隊1500、を西ベルリンに向かわせたのである。イギリス装甲車部隊34、フランス歩兵部隊1個大隊も同時に派兵され、東ドイツ領内のアウトバーンを西ベルリンに向かった。西側の部隊がはたして無事西ベルリンに入ることができるのか、ベルリン危機はその絶頂に達したのである。翌21日西側部隊は西ベルリンに入り、西ベルリン市民の動揺もしだいに収まっていった。そして「ベルリンの壁」だけが残され、その後28年の歳月がベルリン市民を分断し続けたのである。
この事件はケネディにとって心理的な敗北であった、フルシチョフにまたしても先手を許し、平手打ちを食らったも同然であった、東西ドイツ境界線の現状固定と、東西ベルリンの分離は確定的となり、西側、特に西ドイツ自身がイメージする「ドイツ再統一」は空文化したのである。フルシチョフは「平和条約なしに、ドイツ民主共和国の境界線支配の目的を達成し、その主権を確保した。」と自賛した。
冷静に考えてみれば、この現状固定と、壁による東西ベルリンの分離は、逆説的にはソ連がヨーロッパを二分する境界線を侵すつもりがないという証拠にもなる、ケネディはその持論として、東西の力の均衡を維持しつつ米ソ協力による国際秩序管理を志向していたのであるから、ベルリンの現状が固定されたことに内心では安堵を覚えていたと見られる節がある。歴史家たちは、当時ホワイトハウスは西ベルリン市民が壁の構築で受けた衝撃を十分に理解できていなかったと分析する。米国内でも野党共和党を中心として、ケネディのベルリン政策は激しく攻撃された、いわく、ケネディ政権のやり方は空虚なジェスチャーばかりで、共産主義に対する宥和外交そのものである、現実を理解しておらず、まともなベルリン政策も存在しない、言葉ではなく行動が必要な時であるのに書類で戦車を止めようとしている。ケネディはベルリンで「ミュンヘンにすら及ばぬ敗北」を喫した・・・・と

ベルリンと東南アジア

しかし危機直前の8月末、トンブソン駐ソ大使はモスクワで、フルシチョフがベルリンをめぐって「個人的に非常な窮地」にあるようだと見ていた。西側がベルリンで強硬な姿勢を崩す見込みのない以上、ソ連国内のタカ派を黙らせるにはほかのどこかでめざましい成果をあげるしかない。ところがラオス、キューバでつまずいたケネディ政権のほうも、これ以上ソ連に譲歩する用意はなかった。
ケネディとフルシチョフがウィーンで対面してほどなく、アーレイ・バーク海軍作戦部長は、フルシチョフがベルリン問題を、東南アジアで西側の譲歩をかちとる手段に利用する可能性がある、と指摘していた。統合参謀本部内部でも、フルシチョフがベルリン問題解決で譲るのと引き換えに別の場所で有利な取引を求める可能性が高いとし、その「最も危険な地域は東南アジアだろう」と指摘する声があった。ロストウのように、フルシチョフはもともと東南アジアなどにたいして関心はない、とする者もいた。東南アジアとは、フルシチョフが「こちら側の弱点をつく,そして毛沢東にその弱点をつかせない」ための問題にすぎない、というわけである。とすれば、アメリカとしては渡りに船と、東南アジアで譲り、ベルリンを確保する手もあったかもしれない。しかしそうはならなかった。国家安全保障会議の一員ロバート・コーマーが述べたように、ラオスが終わり、ベルリンが地平線に姿を現したいまであればなおのこと、南ヴェトナムでは完全勝利以外の解決を受け入れることはできない、というのがワシソトンの考えであった。ヴェトナムで努力を緩めれば、それこそフルシチョフの思う壷になる。ロストウですら、アメリカがベルリンに気をとられている、いわば幕問を利用して、ソ連がタイをはじめ各地に「火をつけようと狙っている」と警戒していた。彼は大統領に、アメリカがベルリンにかかりきりだとはいっても、東南アジアを忘れ去るほどではない、とアジアの同盟国を安心させ、同時に共産側に釘をさしておく必要がある、と念を押した。もっとも、ロストウの補佐役であったロバート・ジョンソソの考えは少し違っている。もちろん、必要とあらばベルリンと南ヴェトナムで同時に危機をつくりだすのをソ連が逡巡するとは思えなかった。しかし、ベルリンと異なって、ヴェトナムにはハノイと北京という、ソ連と必ずしも利害が一致しない厄介な存在が控えていた。とすれば、ソ連が「二つの危機を同時にさばくのは、かなり困難かもしれない」と、彼は感じていた。
しかしワシントン以上にサイゴンでは、ベルリンをめぐる危機への懸念がつのっていた。アメリカがベルリンに目を奪われるあまり、南ベトナム支援の勢いが鈍るのではないかと懸念されたからである。ノルティング米大使は、「必要なら、いつでもわが国が迅速かつ決然と行動できる」と、敵にも味方にも示さねばならないと訴えた。ケネディも8月2日、訪米した台湾の陳誠副総統との共同声明で、南ヴェトナムの決意をあらためて強調した。同じ頃、北ヴェトナムも中ソ両国から、南での武装闘争をあくまで支援するとの約束を得ていたという。

ラオス交渉

ロストウは、早急にこちらが主導権をとるため、「なんらかの国際的な場に、ヴェトナムヘの侵略の問題を持ちだす」のがよいと提唱した。ラオス中立化を実現するだけでなく、共産主義の脅威から南ヴェトナムを守り抜くのだというアメリカの決意のほどを、そしてもし国際社会がアメリカを支持してくれなくとも、「われわれは最後までやりぬく用意がある」ということを、明瞭に示さなければならなかった。とりわけ統合参謀本部は、アメリカの抑止カヘの信頼が失われつつあるのではないかと懸念を強めていた。ラオスで断固たる姿勢をとれば、「アメリカがその利益を守るために、必要ならどこであろうと軍事力を行使するという決意」をはっきりさせることができる。しかも核戦争につながる確率はベルリンほどではない。もっともロストウは、もし東南アジアを保持するのであれば、ラオスではなく、ヴェトナムとタイこそが戦場だと強調している。いずれにせよ、次の舞台が東南アジアであることは明らかであった。8月7日、ラオス問題にっいて協議した米英仏三国は、中立派のスバンナ・プーマを首班とするラオス国民統一政府の樹立を支持することなどで合意した。しかし現実には共産側の権力奪取を阻止できるかどうかはわからなかった。ロストウには、ラオスと、ヴェトナムおよびタイの国境を守るのに、国際監視委員会がたいして役に立つとは思えなかった。せいぜい「政府内にかなりの共産勢力を認めたうえでの統一ラオス」の実現が関の山のように思えた。こうした情勢に、ラスク国務長官は、外交交渉を継続しながら、また世界情勢をにらみながら、ラオスで軍事行動をとる準傭もすべきだとした。しかしケネディ大統領は、「英仏の支持もなく米国民の関心も薄れつつあるなかで、ラオスでの戦争を引き受けたくはない」という気持ちであった。この年5月に大使としてユーゴスラビアに赴いたジョージ・ケナンにラスクが伝えたように、あとはラオスの中立が共産侵略の「隠れみの」にならないよう、ソ連の同意を得ることであった。