テイラー使節団


ジャングルジム部隊の派遣などを承認した10月11日の国家安全保障会議は、もう一つ、その後のアメリカのヴェトナム政策に大きな影響を及ぼす決定をくだした。ケネディ大統領の軍事顧問マックスウェル・テイラー将軍を団長とする使節団を、南ヴェトナムに送ることになったのである。この日の記者会見でケネディは、テイラー使節団の派遣が東南アジアヘの米軍派遣を意味するのではないか、と質問された。ケネディは、派兵の是非の決定はテイラーの報告待ちだと、明確な肯定も否定も避けた。国務省は米軍派遣を検討中であることじたいを否定した。サイゴンからも、ジェム大統領は米戦闘部隊の必要性を感じていない、との報道があった。ところがワシントンでもサイゴンでも、新聞にはテイラー派遣と米軍投入を結びつけた記事が突然あふれだした。ハノイはアメリカと南ヴェトナムを激しく非難した。ノルティング駐南ヴェトナム大使は、アメリカがヴェトナム側になんの相談もなく、一方的に介入を決定した印象を内外に与えないかと慌てた。ケネディも、米戦闘部隊の派遣をめぐる報道が、政策決定の選択肢を狭めかねないと懸念した。そこでケネディ政権は表向き、テイラーの任務は情勢全般を検討し、現在の南ヴェトナム支援策の強化が必要かどうかを判断することにある、という「事実」を強調する方針をとった。10月14日付『ニューヨークタイムズ』は、米軍首脳が派兵に消極的、と報じた。それは軍事介入論の高まりに困惑する大統領自身によるリークで、戦闘部隊派遣など問違っても勧告してくれるなという、テイラーへのメッセージだったのである。その翌日の午後、便節団はワシントンを出立する。サイゴンヘの途上、一行はホノルルに立ち寄った。彼らを迎えたフェルト太平洋軍司令官は、ヴェトナム情勢はいまや「重大な岐路」にあり、アメリカの迅速な援助が必要だと確信していた。しかし米軍介入については、工兵や、ヘリコプター部隊を含む補給部隊の派遣ならともかく、「さしあたり戦闘部隊は見合わせたい」という見解であった。もちろんフェルトも、いわゆるホー・チ・ミン・ルートを経由したゲリラの兵力や物資の浸透が、南ヴェトナムの治安悪化の原因だという点は疑っていなかった。長い目で見た場合、浸透を阻止するにはある程度の地上軍をラオスに投入するしかない。ただその場合でも、米軍ではなくSEATO軍が望ましい、というのがフェルトの考えであった。

派遣までの紆余曲折


南ヴェトナムヘの使節団派遣はこの年5月に大統領が提案していたのだが、テイラーが二の足を踏んだ。6月下旬、ウォルト・ロストウも大統領にテイラーの派遣を求めた。7月1日に大統領軍事顧問となったテイラーは、軍首脳に失望しきっていたケネディの希望の星となり、テイラー自身によれば「ベルリンと東南アジアにとくに注意を向けながら、情報と冷戦対策の分野で」重要な助言者となった。大統領の弟ロバートは、生まれた息子の一人を「マシュー・マックスウェル・テイラー・ケネディ」と名づけている。ケネディは繰り返し、テイラーをヴェトナムに送りたい意向を示した。しかし肝心のテイラーは、「どこへ行こうとしているのか、われわれ自身が確信していなかったし、政策全般の方向についてなんらかの考えなり合意なりがないかぎり、どんな使節団であろうと派遣は問違いとなろう」と考えていた。だから夏の問じゅう、大統領に低抗し続けていた。しかし、夏が終わるまでに南ヴェトナムの治安は極度に悪化し、ケネディはもはやテイラーの躊躇に構っていられなくなる。サイゴンではジェムも弟のゴ・ジンニ一ユーも、テイラー将軍の派遣を強く求めた。リンドン・ジョンソン副大統領はのちに、ケネディが南ヴェトナムを救うための行動を起こすに先だって、「アメリカの援助があれば南ヴェトナムは独立国でいられるという望みが、本当にあるのか? より大きな効果をあげるためには、どのような形の援助がよいのか? 」を知りたかったのだ、と回顧している。
ヴェトナム特別作業班長をつとめる国務省のスターリング・コットレルは九月末、夏に送ったユージン・ステーレーの使節団が南ベトナムの経済、財政問題でさまざまな提案をしたように、ヴェトナム軍治安回復をめぐる襖悩や米軍事援助顧問団が抱える問題点を検討するために使節団を送ってはどうか、と示唆した。国務省は10月11日の国家安全保障会議で、高位の軍人を派遣し、ヴェトナム介入計画について、政治と軍事の両面から米出先機関やジェム大統領、太平洋軍司令部と協議させるよう提案した。

ワシントンの本音


レムニツァー統合参謀本部議長によれば、テイラーの任務は、「絶対に不可欠だと彼が判断した場合、米軍の導入についてきわめて慎重な検討を加える」ことにあった。だからこの使節団は、国防省内では「限定戦争の研究とその展開のための特別作業班」とみなされていたと、ダニエル・エルズバーグはいう。彼は、マクナマラ国防長官が1967年に作成を命じたヴェトナム介入過程の秘密報告書『ペンタゴンペーバーズ』の暴露で知られる人物である。
具体的には、三つの介入案が検討課題となった。第一に、SEATO軍を南ヴェトナムに派遣する案。第二に、少数の米軍を駐留させてアメリカの「存在」を確立すると同時に、限定的な規模でヴェトコンに対処させる案。第三に、今回は米軍を送らず、軍事援助や南ヴェトナム軍訓練の強化にとどめる案である。
テイラー使節団を送りだすにあたって、ケネディは、南ヴェトナムに限らず、隣接する地域も含めて治安や防衛面の情勢を判断するよう、テイラーに求めた。さらに、現時点でこれ以上の情勢悪化を食い止めるのはもちろんだが、究極的には南ヴェトナムの独立への脅威を封じ込め、除去するための行動指針を、広い範囲で勧告するよう指示した。さらに「南ヴェトナムでは問題の軍事的側面が非常に重要であるが、その政治的、社会的、経済的要素も同じく重要」だと強調していた。ケネディは、使節団に同行するロストウに対しては「ヴェトコンが民族主義を味方につけているのかどうか? 南ヴェトナム国民は本当はホー・チ・ミンを欲しているのか? わが国はフランスのようには大量の軍隊を送り込むことはできず、南ヴェトナム人はみずから戦わなくてはならない、彼らにそれができるのか? 彼らは最後までやり抜くつもりなのか? 」を調べるよう命じている。ロストウは現地で、たしかに南ヴェトナムは問題であふれているが、知識人を含む国民の大多数はけっして共産主義を望んではいない、またハノイ支配下での統一を求めているわけでもない、という確信を得た。グエン・ゴク・ト副大統領もテイラーに、南ヴェトナム国民は反共で、戦う意志もあるので、「政府が正しく機能しさえすれば息を吹き返させるのは簡単」だと請け合った。ジェム大統領の欠陥をあげつらうズオン・バン・ミン将軍でさえ、ヴェトナム人はたいてい共産主義者が嫌いだと述べている。だが、このテイラー使節団に求められているものはいったい何処にあるのであろうか。以後のヴェトナム戦争の趨勢を決定づけたとも言われるこの使節団に対する各方面の思惑の違いをどのように評価するかによって「ヴェトナム戦争に関するアメリカ政府の責任」の所在がはっきりと分かれるのである。冒頭にも述べたようにケネディはあらゆる情報をリークしてまで、使節団に真意を伝えようとしていた、しかし当のテイラー将軍は「使節団の目的は、敗色濃い試合の流れをどのようにして変え、勝ちを引き寄せるか」にあると理解していた。しかしあらゆる状況から想像するにケネディの真意は「どのように試合を中止するか」にあったと思われる。(この点は諸説分かれるところであるが、いまや闇の中と言わざるを得ない)ヴェトナム情勢が日増しに緊迫している以上、使節団の関心が軍事面に傾斜していたことはやむおえなかった。それにしてもこの使節団にはテイラー・ロストウに匹敵するような高官が国務省から派遣されていなかった。それはヴェトナムという難問を国防省に押し付けようとする、ラスク長官の意図的な決定であり、結果としてサイゴンでもワシントンでも、ヴェトナムは政治問題から軍事問題へと転換していったのである。国務省内にも、ヴェトナム政策の主導権を国防省から奪還すべきであるといった声は高まっていた。しかし肝心のラスク国務長官はヴェトナムを基本的には軍事問題と考えていた、と当時の情報調査局長ロジャー・ヒルズマンは回顧する。ロズウェル・ギルパトリック国防次官も後に「ラスクを筆頭に国務省は、国防省がテイラー使節団の主要な利害関係者であり、一種の主役を務めることを受け入れていたと思う」と述懐している。

テイラーとジェム


テイラー使節団がサイゴンに降り立った時、南ヴェトナムは1954年以来もっとも暗い状況にあったといえよう。国民がジェム大統領に寄せる信頼は「最低点」にまで退潮していた。彼らは、光も見えず脱出もできないトンネルにいるのも同然で、その意気消沈ぶりが「使節団のメンバーに強い印象を残した」とテイラーはいう。ロストウも、「到着したとき、なにか抜本的なことがなされない限り、3カ月以上持ちこたえられると考えた者は一人もいなかった」と述懐する。アベレル・ハリマンはラオス中立化交渉にあたっていたが、ジュネーブのいたるところで、不安定きわまりないジェム政府の末路が話題にのぼっていた。ハリマンは、自分たちは「いっなんどき爆発するかもしれない火薬樽の上に座っているのも同然」だと、10月にワシントンに報告している。テイラーは1955年の初対面以来、ジェム大統領に尊敬の念を抱いていたという。しかしジェムはテイラーを前に果てしのない独白を始めようとするばかりで、南ヴェトナムとアメリカが直面する困難な問題について率直に話し合うことになど、まるで気乗りしない様子であった。ジェムはフランス語で、どんな話題であろうとまず日本の占領(いわゆる仏印進駐)時代から話し始める。これではテイラーとしても「新しい友人としての関係が打ち立てられた、アメリカがヴェトナムヘの支援を増大させたのだと、ヴェトナム人に思わせる」のは容易ではなかった。テイラーの補佐官ワース・バグレー少佐は、このときテイラーは、自分がジェムから政治面や軍事面の情勢について問違った知識を与えられようとしていると感じていたという。しかしそれでもアメリカ人たちは、ノルティングの次席にあたる代理大使となったばかりのウィリアム・トルーハートのいう、この「壌れたレコード」とつきあうしかなかった。
10月下旬、メコンデルタの大洪水は「救援活動を行い、被災した省で政府と国民の間における立場を改善できるまたとない好機」をジェム政権に提供していた。ジェムの右腕であるグエン・ジン・トアン国務相は、道路や橋の修復、学校の再建や新設などの処置によって「洪水前の状態を回復するためだけではなく、ヴェトコンの復帰を阻止し、国民を政府のもとに結集するための改善をもたらす」必要があると認めた。テイラーがサイゴンに到着する前日の10月17日、ジェムは洪水救援に全力を尽くすのだとして、26日に予定されていた建国記念式典の中止を声明した、さらに18日、洪水とゲリラに対処するために国家非常事態宣言が発効、あらゆる法律の執行が停止された。ジェムは初めて公式にヴェトナムが戦争状態にあることを認めたわけである。25歳から33歳までのすべての男子を対象に、兵役義務は1年から2年に延長された。その結果、働き手を奪われることになる農民はますますジェムにそっぽを向いた。それは事態の深刻さを使節団の脳裏に刻み込み、援助増の呼び水とするためであったとも、ジェムがすでに持っている絶大な権力が、今はじめて付与されたかのように見せかける姑息な手であったとも言われている。