テイラー勧告

テイラー使節団の訪問をきっかけに、サイゴンの政治的温度は目に見えて上昇していった。ジェム大統領の唐突な国家非常事態宣言は、人々の士気ではなく危機感を強めたに過ぎなかった。人々は買占めに走り、物価上昇がますます世上の不安感に拍車をかけた。テイラーは10月25日、南ヴェトナムでは「深刻かつ広範な信頼の危機と、国民の士気の著しい喪失が引き起こされている。」とワシントンに伝えた。西側のラオス政策、メコンデルタの洪水、ヴェトコン兵力の増強、南ヴェトナム軍の敗退などの相乗作用が、政治的、軍事的な危機をもたらしたのである。アメリカが事態を改善しようにも、肝心のジェムが障害として立ちはだかっていた。彼は相変わらず他人の言葉にはまったく耳を貸さず、側近でさえその統治のやり方を疑うありさまであった。あるヴェトナム高官は、南ヴェトナムが直面する問題のかなりの部分は、ジェム個人の性格と出自に由来している、と語っている。テイラー使節団の一員でもありヴェトナム作業班を率いるコットレルによれば、欧米の基準からすればジェムはインドネシアのスカルノ、韓国の李承晩、台湾の蒋介石と同様「東洋専制君主の鋳型」から生み出された独裁者である。アメリカがどれほど脅しをかけても、説得を試みても、民主主義の導入といった考え方を採用するとは思えない。ジェムを「正気づかせる」ことなどしょせん不可能であると。

カンボジアとの関係


9月末、カンボジアの国家元首シアヌークは、国連総会出席のため訪米している。従来にもまして、カンボジアと南ヴェトナム、タイ両国との関係改善は「東南アジア全域の安定に影響する大問題」になっていた。とりわけロストウがいうように、カンポジアが「ヴェトコンの聖域として利用されている」とすれば、一日も早く国境監視にカンボジア政府の協力を得る必要があった。しかしカンボジアと南ヴェトナムとの関係はますます悪化し、アメリカはこれに苦慮した。シアヌークはこの問題にはとくに敏感で、しかも、1959年に起きたカソボジア政府転覆の陰謀にアメリカ側が一枚噛んでいるのではと疑心暗鬼だったため、ワシントンは彼を腫れ物のように扱った。シアヌークはケネディに、いわゆるホー・チ・ミン・ルートはヴェトナムの南北を結ぶ昔からの道であり、いまさら騒ぐこともないという態度を示した。しかも、そのルートの一部がカンボジアを経由しているなど、根も葉もないことで、南ヴェトナムの情勢悪化の本当の原因は別のところにある。この隣国ヴェトナムは「政権が国民の支持を得ない限り、けっして安定するはずはない」というのがシアヌークの言い分であった。シアヌークは、南ヴェトナムとの関係改善にはやぶさかではないと述べている。しかし、南ヴェトナム領内の60万人のカンボジア系住民は独自の言葉も文字も禁じられ、子供をカンボジア人学校に入れることもできず、自由を抑圧されている。カンポジア沖合いの諸島の領有をヴェトナム側が要求し続けているが、それは植民地統治時代ですらカンボジア領だった場所である。ヴェトナムと言う国自体、もともとはカンボジア領の一部だったのだ。こうした主張にケネディはとりつく島もなかった。10月下旬、国務省政策企画委員会は、共産中国の力の増大と、曖昧な形の共産主義者の侵略の脅威を前に生き残るため、東南アジア大陸部の諸国どうしの関係を強化すべきだと考えていた。とくにアジア諸国は、「毛沢東主義にもとづく浸透と反乱の循環戦術」に呑み込まれないようにするにはどうすればよいか、知らなければならない。その結果をもとに、各国ごとの事情に即した計画をつくり、さらに脅威にさらされる諸国、アメリカ、それ以外の諸国の協力によって共産勢力の膨張に対抗すべきだと主張した。

地域防衛の重要性

同じ反共国家どうし、しかもカンボジアという共通の難物を抱えていながら、南ベトナムとタイの関係もうまくなかった。タイ政府が領内に住む七万人あまりのベトナム人難民のうち、二万人以上を1961年秋までに北ベトナムに送還したことが、両国関係に大きなきしみを生じさせていた。ジェム政府の圧政を非難する格好の宣伝材料をハノイに提供したことになるからである。対照的に、遠く海を越えて、南ベトナムに支援の手を差し伸べたのが台湾である。蒋介石はアジア本土に台湾軍を駐留させる利点から、一個師団をひそかにベトナム南西部に送るという案を示唆した。メコンデルタに中国系住民が多いことから、ジェムもこれに興味を示した。南ベトナムのトゥアン国務相はテイラーに、「中国人か韓国人の幹部」を民問防衛隊か、自警団に入れてはどうかと打診している。蒋介石も、南ベトナムヘの派兵が「微妙な問題」だと十分承知していたが、「たとえ戦闘のためでも、幹部要員なら送れる」という楽観的な態度であった。10月18日の記者会見でラスク国務長官は、東南アジア地域全体の安全はアメリカにとって「最大級の重要性」を持っている、と声明した。東南アジアのなかでも、アメリカが当面最も差し迫った関心を抱いているのはラオスと南ベトナムであった。両国に対する脅威は、タイ、カンボジアをはじめ、それ以外の東南アジア諸国にとっても重大な関心事のはずであった。しかしこの年秋、アジアの非共産主義諸国は「精神分裂症的な態度」を示していた。アメリカの弱さを懸念しながら、同時にアメリカの強硬な態度が中国を刺激することも恐れていたのである。とくにピルマ、インドネシア、カンボジアは共産主義者の侵略への恐怖感を強めていた。タイ国内では中立外交を求める圧力が強まっていた。そこにはアメリカやSEAT0への大きな失望があったし、中立のほうが東西両陣営から援助をもらえるという思惑もあった。バンコクのケネス・ヤング米大使はテイラー将軍に、必要なのはまず「アメリカの活動をいっそう地域化すること」、つまり各国個別ではなく東南アジア全域をつねに念頭に置いて政策決定することだと訴えた。具体的には、各国駐在の米大使や軍事援助顧問団長どうしの協力の緊密化、地域作戦センターの設立、情報の統合、東南アジア統合司令部の創設、各国首脳と米大統領による東南アヅア首脳会談の実現などが考えられた。さらにヤングは、共産陣営の侵略に対抗すべく、「蜂の巣/蛙跳びベルト」の形成を提唱した。それは、この年春に彼が提案したアグリメトロ(共産中国を南側から包囲するように、国境を越えて村落どうしを結びつける)をさらに発展させたものであった。ビルマ、タイ、ラオス、カンボジア、南ベトナムを一体化し、その周囲に沿った無数の村落を、ちょうど蜂の巣のような網の目に結びつける。山岳地帯や遠隔地にはとくに作戦拠点を設け、蛙が360度どこにでも跳べるように、レンジャー部隊によるバトロールやゲリラ攻撃を行う。さらに、アジアに経済、政治目的の多角的組織をつくるのもよい、とヤングは論じた。

戦闘部隊

南ベトナムは国境外からやってくるゲリラを食い止めようと必死だったが、国境の防衛も監視も自力ではむずかしかった。隣接するラ才ス、カンボジアの協力を得ることもできなかった。とすればゲリラとの戦いは、もっぱら国境の内側で展開されることになる。ところが南ベトナム軍の弱体ぶりを考えれば、あとはアメリカの軍事力に頼るしかなかった。10月半ば頃、米国防省、統合参謀本部、陸、海、空軍および海兵隊は共同で、ベトナムの現況や今後の方策について検討した。その方策とは、たとえば南ベトナム軍の訓練を名目とする米戦闘部隊の派遣、ダナンや南部の諸港湾への駐屯、戦闘工兵大隊の派遣、兵姑部隊の派遺などであった。大規模な米戦闘部隊の投入を回避したうえで、なお20に及ぶ措置が考慮の対象となった。この研究結果はサイゴンに赴く直前のテイラー使節団に渡された。そこで指摘されたのは、これまで米戦闘部隊を南ベトナムに迎え入れることに反対してきたジェムが、いまや態度を改める可能性がある、ということであった。事実サイゴンでは10月22日、トゥアン国務相がノルティング米大使に、「情勢悪化にかんがみてジェムの見解は変わった」と、伝えている。10月9日の時点で、マクナマラ国防長官はジョージ・アンダーソン海軍作戦部長に、「ラオスには介入できなかったが、南ベトナムには介入すべき」だと述べている。テイラー将軍とともに南ベトナムを訪れる予定のロストウは、にもかかわらず「ワシントンとサイゴンの最高首脳たちは、状況に早急な変化をもたらしうる規模の、新たな兵力導入には抵抗するつもりのようだ」と不満顔であった。北ベトナムや中国との直接衝突、ベルリンヘの飛び火などを恐れる気持ちはわからないでもない。しかし、そうした危険を冒さずして南ベトナムや東南アジアを救える手だてはないのだ、とロストウは確信していた。実際にはハノイもモスクワも、中国軍を北ベトナム領内に導き入れたくはないだろうし、核戦争を望んでもいないはずだ、というのが彼の楽観の根拠であった。行動によって引き起こされる危険より、行動しないために失われる利益のほうがはるかに大きい。そう信じるのはロストウだけではなかった。サイゴンのノルティング大使もまた、「南ベトナムでの事態によって世界的な力の均衡が大きな影響を受ける」ことに懸念を強めていた。それこそがジェムにとってはつけめであった。

ジェム、米軍派遣を要求

10月18日、テイラーを迎えたジェム大統領は、戦術空軍部隊、ヘリコプター中隊、沿岸警備隊、補給部隊、輸送部隊などの派遣を求めた。グェン・ゴク・ト副大統領、グェン・ジン・トゥアン国務相、グエン.カーン参謀総長ら、南ベトナム政府首脳もこぞってこの要求を支持した。ジェムはその理由としてラオス情勢の悪化、政府軍の増強の遅れ、敵兵力の拡大などをあげた。ジェムがこれまで米軍を拒否し続けてきたことを思えば、トゥアンでさえ「理解できない」と漏らすほど唐突な、まさに豹変であった。それほど急速に南ベトナムの危機が先鋭化したということだろう。その二週問たらず後、南ベトナム国民は「ほとんど全員一致で、ベトナムに米軍を導入してほしいと望む」までになったと、ノルティングは報告している。国民の脳裏には、アメリカがいざというときに南ベトナム政府を武力で支援してくれるのか、それとも簡単に引き下がってしまうのか、という疑問があった。共産主義者と戦う彼らに、最後の最後まで味方するのだ、というアメリカの決意を証明するためにも、米軍の投入が強く望まれる、とノルティングは主張した。ジェム自身、南ベトナム国民は共産主義者の攻撃を国際問題と考えており、外国軍の導入にも「とくに心理的な逆効果はないだろう」とテイラーに請け合っている。一〇月末、国家安全保障会議の一員ロバート・コーマーは、マクジョージ・バンディに、米軍派遣は「長期的には最も経済的」な手だマクジョージ・バンディてで、「真の問題は介入の是非ではなく、その迅速さと規模」だと力説した。素早く行動しさえすれば、この戦争は朝鮮戦争のように大規模にならなくてすむ、とも論じた。シュレジンガーは、少数の米軍部隊を投入してやれば事態の悪化に十分対処できるはずだ、と考えられていたと述懐する。米軍が直接戦闘の矢面に立つかどうかは別として、ジェム大統領も米軍の駐留に、軍事面で大きな貢献を期待していた。北緯一七度線近くに「象徴的な」米軍兵力を置いておくだけで、敵の攻撃を阻止できる。現在そこに釘づけの南ベトナム政府軍を、ほかの地域での戦闘作戦に振り向けることも可能だ。南ベトナム中部のいくつかの省に米戦闘部隊を駐留させれば、南ベトナム政府軍の防衛部隊に別の任務を与えることもできるだろうと考えていた。ジェムが求めているのは米軍部隊だけではなかった。重要なのは、事態がどうなろうとけっして部隊を撤退させない、というアメリカの「公式のコミットメント」である。ジェムが9月末にアメリカとの相互防衛条約を求めたのもそのためである。トゥアン国務相によれば、米戦闘部隊の駐留は「条約よりも迅速な第一歩」とみなされていた。米軍部隊がやってくるのなら、「南ベトナムに駐留しこれを防衛するというコミットメント」をともなわなければならない。たとえば米議会の立法によって、ある日突然米軍が撤退するなどという事態が生じてはならない。1960年大統領選挙の民主党内の指名争いでケネディの軍門にくだり、いまは米上院軍事委員長をつとめるスチュアート・サイミントンがちょうどサイゴンを訪れた。ジェムはサイミントンに、「ケネディ大統領が米軍導入を決定した後に、議会の批判によって部隊撤収を強いられるのではないか」という、強い懸念を表明した。サイミントンは議会の与党民主党の有力者の一人として、「ひとたびアメリカがコミットを行ったならば、引き下がるよう求める者は、議会の責任ある立場には一人もいないと確信する」と述べ、ジェムを安堵させた。