1977年3月30日、アメリカからの一通の電報が届いた。
「会見不能、D死亡、委細手紙」

日本人の手によるケネディ暗殺事件をとりあげた書籍の中で異彩を放つ、落合信彦氏の著書「2039年の真実」の冒頭書き出しの部分である。この電報に言うところの”D”とは、ジョージ・デ・モーレンシルツ。彼は1977年3月29日フロリダ州マナラバンの妹の家で死体となって発見された。このモーレンシルツとは何者なのか?この人物に関しては”被疑者解析”の項目で紹介しているが、1962年6月亡命先のソ連から帰国したオズワルドが、同年10月フォートワースに移住してきたときオズワルド夫妻の保護者的立場にいた人物である。
ケネディ暗殺事件研究のなかでオズワルドが”アメリカ情報組織と雇用関係に有った”と言う説があるが、もしこの事が証明されたならばウオーレン報告書の基本的な論旨が総て崩壊してしまうほどのインパクトを持った出来事になる。”情報組織とオズワルド参照”この問題に関しての重要な鍵を握っている人物こそ、このモーレンシルツなのである。ここでは、事件のキーマンとも言える”ジョージ・デ・モーレンシルツ”に焦点をあてる。

灰色の貴族モーレンシルツ

ダラスでのオズワルド夫妻の生活にもっとも大きな影響を与えたのは、白系ロシア人の移民で、ナチス時代のドイツ、フランス、ポーランド、それにアメリカの情報機関と長年にわたり次々と密接な関係を持ってきたジョージ・デ・モーレンシルツという人物であった。第一次世界大戦前の帝政ロシアで男爵の称号を持っていた家系の出身である。ロシア革命に批判的であったモーレンシルツの父は一家でポーランドに亡命した。そこで育った彼はベルギー大学を出ると二十七歳の時に渡米、テキサス大学で石油地質学の修士号を取りアメリカ市民権を得ている。これが、南部石油業者との因縁の始まりであり、同時にテキサス州など南部に多い反共・保守の白系ロシア人社会に入り込むきっかけともなったのである。石油問題での特別な知識を買われ、その道では実力者となっていたモーレンシルツは50年代から60年代始めにかけて西アフリカ・中央アメリカ・カリブ海地域などを幅広く旅行している。この旅行はCIAの依頼による情報活動の旅であったと言われている。この時、彼はグアテマラのCIA軍事訓練所でハワード・ハントと連絡をとっていた形跡がある。このことは1957年にアメリカ国際協力局の依頼を受けて、ユーゴスラビアを旅行した時に、ユーゴの軍事施設をスケッチしている所を発見され一時身柄を拘束されていた事実によっても証明されている。彼の旅は、単に石油埋蔵地域の地質調査だけではなかったのである。ちなみに、アメリカ国際協力局とはCIAの資金援助によって海外情報の収集に当たっていた組織である。
この時の、ユーゴスラビア旅行や中南米の旅行の帰国報告書はCIA首脳部から高く評価され、テーマ毎に十数編のレポートに分類されて政府の各部署に配布されている。

出会い

1962年10月フォトワースのアパートに住み始めたオズワルド一家にとって、フォトワースやダラスの白系ロシア人社会が心のささえになった。しかし、孤独僻があり愛想の悪いオズワルドから人々は次第に遠ざかり、たどたどしい英語を話す実直なマリーナだけがグループと親しい交際を続けた。そんな時、大物であるモーレンシルツ夫妻がオズワルドに接近してきたのである。表向きはモーレンシルツの父親がミンスクに住んでいた事があるので、ミンスクから帰国したオズワルドに故国の話を聞きたいと言う物であった。ダラスの名士であり教養人で富豪のモーレンシルツからの交際の求めにオズワルドは有頂天になり、生涯で始めてとも言うほど、モーレンシルツを尊敬するようになっていく。
この、ごく自然発生的にも見えるモーレンシルツとオズワルドとの出会いにも重大な陰が見え隠れするのである、それはCIAの陰である。
暗殺後の事情聴取の際、モーレンシルツは意外なことを口にしている、ダラスでオズワルドと交際する前にCIA当局者の了解を取りつけていたと言うのである。このCIAの当局者と言うのがダラス支局の国内接触課のウオルトン・ムーアであった、彼こそ、1962年にオズワルドが帰国した時”デブリィーフ”したとされる「アンディー・アンダーソン」なる人物と推定されている人物である。”情報組織とオズワルド参照”モーレンシルツの証言によると、62年の秋にムーアと食事を共にした時、彼はオズワルドを話題にした。その時モーレンシルツは「この男と交際しても、大丈夫かね?」とムーアに尋ねたと言う、するとムーアは「うん、やつなら大丈夫さ。人畜無蓋のイカレポンチだからね。」と答えたと言う。面白いのは、側でこの会話を聞いていた妻のジャンヌ・モーレンシルツの回想である。彼女によれば、夫が突然オズワルドの名前を出したのに、ムーアは驚いた様子もなく話に応じたというのである。この事はCIAのダラス支部がオズワルドの事を熟知しており、事件一年前からオズワルドの行動を把握していた事になるのである。当時のCIAダラス支局長はゴードン・シャンクリンであったが、モーレンシルツも、ムーアがCIAの人間である事は知っていた可能性が高い、モーレンシルツにしてみればオズワルドは、あくまでも亡命帰りの人物でありKGBのスパイである可能性も有ったのであるから交際の是非を確認しているのである。それを、ムーアに聞いている事実がこれを証明している。
ここで注目すべき事は、モーレンシルツがオズワルドと交際しているころ、CIAダラス支局の人物が頻繁にモーレンシルツと接触していたと言う点である。モーレンシルツは、ムーアを連絡係としてCIAがオズワルドに付けた「お目付け役」であったのであろうか?通常の意味からするとその可能性はまず無いと言えるであろうが、ムーアがシャンクリンの指示により、日常的な接触と報告の受理を本来の仕事とする国内接触課の管轄を超えて動いていたとするならば話は別である。一方のモーレンシルツは、オズワルドは情報工作要員としては適性に欠けると断言している。「いかなる国の政府と言えども、リーになにか大事な事を任せるほど馬鹿ではない。」とウオーレン委員会で証言している。勿論、モーレンシルツやムーアがケネディ暗殺を企てた一味であったとの仮定に立てば、この証言も信憑性はない。それではモーレンシルツはダラス支局のウオルトン・ムーア以外のCIA要員とも接触があったのかと言う問題にも触れなければならない。
「あー、ジョージなら知っている。」と語る人物が居る。ニコラス・アニケフである。アニケフの名前はCIAに関する数々の著作の中にたびたび登場する。彼自身は、CIAの職員であった事は認めているが、どこの部署に居たかについては頑として語って居ないが、それらの著作や資料から、CIAのソ連部の中のいずれかの課長だったようである。その彼が1963年の春にモーレンシルツとワシントンで会っていることを認めたのである。これまで事件研究家のあいだでは、モーレンシルツがワシントン滞在中にCIA職員と連絡を取ったのではないかと取りざたされていたのであるが、事実であった。勿論、アニケフは「この時オズワルドの名前は話題には上らなかったし、事件前にモーレンシルツとオズワルドについて話しをした記憶はない。」と述べて居る。
しかし、1962年から63年にかけてモーレンシルツがCIAソ連部の課長と密接な接触を持って居たと言う事実は注目に値するが、だからと言ってオズワルドやモーレンシルツがCIAの意を受けて動いていたとか、モーレンシルツがオズワルドの動向をアニケフやムーアに報告していたという証拠にはならない。ただ、言えることは、ただでさえ興味深い”偶然の一致”がうずたかく山をなしている暗殺事件に、また一つ”偶然の一致”という事例が加わったという事である。

モーレンシルツの死

1963年5月、モーレンシルツはハイチに移住する。半年後事件が発生しFBIは、容疑者オズワルドの知人であったと言うことでモーレンシルツの事情聴取をする、この時前述の証言が飛び出すのであるが、この後彼はハイチにおいて「ケネディ暗殺事件の背後にはCIAがいる。」と語ったり「オズワルドと交際する前に、私はCIAの当局者に問い合わせたが、全く無害な人物と言う返事をもらっている。」と漏らしたのである。CIAは彼に圧力をかけ「オズワルドの件に関してCIAと話したことはない」と言う声明文を書かされている。一方CIAはハイチの大統領フランソア・デュバリエに対して「モーレンシルツはポーランドの共産主義者で、ケネディ暗殺事件の犯人オズワルドの友人であった。」との中傷をおこなっている。この為モーレンシルツはハイチに住むことができなくなり1967年にハイチを出国してダラスに戻っている。そこで彼はダラス市内のカレッジでフランス語を教えながら静かに暮らしていたが、運命は彼の安穏な生活を許さなかった。1977年3月下院暗殺問題特別委員会はモーレンシルツの召喚を決定した。これを聞いたモーレンシルツは、ハイチを追われた憎しみからか、3月29日作家であり事件研究家の一人であるエドワード・エブスタインの取材にフロリダ州マナラバンの妹の家で応じ、初めて事件の深層に触れる証言をしている。翌日のウオールストリート・ジャーナル紙に掲載されたこの時のインタビューでモーレンシルツは、

  • CIAのウオルトン・ムーアは、私にオズワルドと会うように勧めた。
  • ムーアの勧めが無かったら、自分はオズワルドとは会わなかったであろう。
  • CIAは、オズワルドの動きに目を配るように私に依頼した。
  • ケネディ大統領暗殺事件には陰謀が存在しており、情報機関の一部の分子が役割を演じた。
等とショッキングな回想を発表したのである。
1977年3月29日、エブスタインの取材を終えたモーレンシルツは暗殺問題委員会への旅立ちの支度をしていたであろうと想像する。・・・・しかし・・・・・
取材の数時間後、モーレンシルツは拳銃で頭を撃って死んでいるのを発見されている。フロリダ州パーム郡保安官事務所の捜査主任リチャード・シーツ警部は死因に対して重大な疑問を表明したが、デヴィット・フィリーの時と同様に検死官はあっさりと”自殺”と片ずけてしまった。
モーレンシルツの死を聞いた下院暗殺問題特別委員会のブレイヤー委員長は「この人物は(真相究明の)カギを握る証人だったのに・・・・」と嘆いたといわれる。