第九章 ジャクリーヌ

ジャクリーヌは、フィラデルフィアの大富豪で、ケネディの父親同様、株式仲買人として儲けたジョン・ブーヴィエ三世の長女として生まれた。その祖先はフランスのグルノーブル砲兵連隊の将校で、アメリカの独立戦争でラファイエット将軍とともに植民地側、すなはちアメリカ人側で戦った殊勲者であった。独立戦争後、いったん帰仏していたが、この祖先の二代目が渡米してフィラデルフィアに住み着いた。ミッシェル・ブーヴィエと言った。イタリアから大理石を輸入したり、ベニア板の製造などをして栄えたという。現在もフィラデルフィアにはブーヴィエ通りが残っているほどであるので、かなりの名門であったことは間違いない。ミッシェル・ブーヴィエはフランス貴族の娘を嫁にもらって10人の子供を産んだ。その一人がジャクリーヌの曾祖父にあたるジャン・ブーヴィエである。南北戦争を戦い片肺を失ったという北軍の軍人で、この男の妻キャロラインも名門の出であった。ニューヨークに孤児院をつくった慈善事業家として有名な女性である。ちなみに、ケネディの長女の名前はこの曾祖母の名前から頂戴したものである。ジャクリーヌはその三代目の子供ということになる。彼女の母親のジャネット・リーの家系も名門で大金持であった。なにもかもが、きらきらしたアメリカ的貴族社会の家庭に生まれたのである。
1929年7月28日。ジャクリーヌ・ブーヴィエが生まれ落ちた赤ん坊のころは、決してきれいな子ではなかったそうだが、成長するにしたがい、両眼の間隔が大きかったのを除くと、顎の線がきわだち、いつも濡れたような肉感的な口もとをした魅力的な娘として育った。母親は一歳のジャクリーヌをポニーに乗せて乗馬を教えたが、二歳になったころには子馬を乗りこなすまでに上達したという。夏はロングアイランドのイースト・ハンプトンで暮らし、冬になるとニューヨークのパークアベニューにある豪華なアパートで生活した。小学校はチャピン校という有名な私立学校を出た。ニューヨーク・タイムズには、11歳のジャクリーヌが馬術大会で二回も優勝して注目された記事が残っている。
バレエの好きな文学少女で、ミチェルの「風と共に去りぬ」を三回も読み返した程だが、両親は彼女が11歳のときに離婚した。ジャクリーヌは妹と共に母親についいて新しいニューヨークのアパートに移り住んだ。13歳になった時母親は、ヒュー・オーチンクロスと再婚した。ニューイングランドのニューポートに七十五エーカーもある広大な農園を持ち、ワシントン郊外にもポトマック河をのぞむ城のような邸宅をもった男であるが、オーチンクロスはジャクリーヌをよく可愛がってくれた。彼には先妻との間に設けた三人の子供がいたが、母はオーチンクロスとの間にも二人の子供を産んでいる。合計7人の新しい兄弟であった。15歳になったジャクリーヌはコネチカット州の私立学校に入ったがその学校の卒業アルバムにジャクリーヌの言葉が残されている。彼女の野心が覗けて面白い。そこには「普通の家庭の主婦には絶対にならぬこと」と書かれていた。18歳で社交界にデビューしたジャクリーヌはその年のデビュタント一位に列せられた。少女の世界では、男が大統領になるくらい大変なことである。社交界評論家チョリ・ポッカの紹介文「アメリカは伝統の国で四年毎に大統領が選ばれ、毎年デビュタントの女王に王冠が贈られる。1949年の王冠は、ブルーネットのジャクリーヌ・ブーヴィエ嬢の頭に輝いた。彼女は典型的な容姿とドレスデン陶器の優雅さを兼ね備えている。」
ニューヨークの名門「ヴァサー校」に入ったジャクリーヌは、シェークスピアに読み耽り、長文の詩を暗誦する日々であった。夏休みにはヨーロッパを旅行し、バッキンガム宮殿のパーティにも参加した。まさに、蝶よ花よの少女時代を送ったわけである。ヨーロッパ旅行でなによりも彼女の心を惹きつけたのはパリの街であった。スミス・カレッジでは、生徒の卒業前年をヨーロッパで送るシステムになっていることを知った彼女は、パリに留学したい一心でスミス・カレッジに転校してしまった。そしてフランス語の猛勉強の上、パリに向かった。パリでは、フランス人の一般家庭に住み込みソルボンヌ大学に入りその語学の才能に磨きをかけている。アメリカに帰って彼女が選んだ学校はジョージ・ワシントン大学であった。そこで彼女はジャーナリズムを専攻して、四年生の時に「ヴォーグ誌」の年次コンテストに応募して、プリ・ド・パリ賞を獲得した。この賞の対象となった短編とエッセイは、オスカー・ワイルド、シャルル・ボードレール、セルゲイ・ディアギレフ(ロシアのバレエ監督)のことを書いている。才能がなければ獲得できない大賞を手にしたわけである。
ジャクリーヌは家族の友人であったニューヨーク・タイムズのアーサー・クロック(ケネディの卒論の出版に一役駆った人物と同一人物)を介して、ワシントン・タイムズ・ヘラルド社(後にワシントン・ポストと合併)に入社。同紙編集部のインタビュアーとなった。スピード・カメラをぶらさげて。インタビューを専門とする女性記者の誕生であった。彼女のコラムは評判となり、同紙は彼女のために専用のコラム欄を作ってやった。
彼女はニクソンの娘にもインタビューしている。6歳のパトリシア・ニクソンが副大統領に選出された1952年に父親についてジャクリーヌの質問にハキハキ答えてこう言っている。「パパはいつも外出しています。有名になると家にいられないのです。私のクラスでは皆アイゼンハワーに投票すると言ってますけど、私はパパに投票するとみんなに言いました。」ジャクリーヌは独身上院議員のケネディにもインタビューしている。この時ケネディと会うためにカメラを担いで取材に出かけようとした彼女に編集長は言った。「ジャッキー!大きな夢を持っちゃだめだよ、彼は年をとりすぎているからな。」編集長はいましがた颯爽と編集局を出ていった美貌の女性記者がケネディと密かに交際を続けていた秘密を知っていたのである。
共通の友人である新聞記者のチャールズ・バーレットの結婚式に招待されたケネディとジャクリーヌが始めて顔をあわせてから3年の歳月が流れていた。二人はバーレットのジョージタウンの晩餐会に招かれて二度目の顔を合わせた。1951年の6月の夜であった。
バーレットの回想
「ケネディが、マサチューセッツで選挙(上院)運動に力を入れ始めたころだった。ジャクリーヌはヨーロッパ旅行に出かけようとしていた。事はこの時はじまった。パーティが終わった。二人は同時に帰ることになった。僕は通りの向こう側に駐車してあったジャッキーの車まで送って行った。その時ケネディが恥ずかしそうにやってきて、「どこかに飲みに行きませんか?」と言ったんだ。その時ジャクリーヌの車の中で騒ぎが起こった。バーレット家の犬が、ジャクリーヌの車に飛び掛かり、座席にいた男に食いついていたのだ。車にいた男はジャクリーヌのボーイフレンドで、偶然、バーネット家の前を通りかかり、ジャクリーヌの車を見つけたので座席に座って待っていたのだ。びっくりしたのはケネディの方だった。彼は自分が邪魔者だと言うことを知ってすごすごと引き下がって行った。」
ジャクリーヌの回想
「長い間の求婚でしたわ。私はヨーロッパに出かけ、彼は選挙運動に夢中でしたので、それから6ヶ月ほどは没交渉でした。半年後、二人ともワシントンに戻ってきましたが、彼は議会へ、私はジョージ・ワシントン大学の最終学期でしたから。でも時々は逢いました、彼は週の半分はマサチューセッツでした。ボストンの行き付けの牡蠣料理店(ユニオン・オイスター・ハウス。(ダラスオフ会報告参照)から、来週水曜日に映画に行かないかと電話してきました。長距離公衆電話でしたので、ジャラジャラとコインを入れる音が何度もしました。私に本を贈ってくれたこともありました。サム・ヒューストンの一生を描いた「大ガラス」やジョン・バカンの「巡礼の道」などでした。」
バーレット邸が二人のランデブーに使われたが、ボビーの家も使われた。ボビーは兄よりも一足先にエセル・スカーケルと結婚していた(1950年6月17日)。ケネディは独身であることも政治家のアピールポイントとしていたので、二人の逢瀬は人目を忍ぶ密会であった。1953年5月・・・ジャクリーヌはケネディの心を試す気もあったのであろうか、突然ロンドンへ旅立っていった。エリザベス女王の戴冠式取材を兼ねた出張旅行であった。「貴女の記事はすばらしいが、貴女がいなくて淋しい。」ケネディはロンドンへ電報を打った。
ジャクリーヌがロンドンから帰国してきた時、空港のロビーでケネディは迎えた。じれったそうな顔をして彼はプロポーズをしたのである。
ジャクリーヌにとってケネディは新しい経験であった、彼はそれまで聞いたことの無いような鋭い質問を彼女にあびせかけた。自衛のために彼女のほうからも質問を返すようになっていた。ある時彼女は、あなたは自分がどんな人間だと思っているのか、とたずねた事があった「幻想を持たぬ理想主義者」と言うのが彼の答えだった。1953年9月、二人が結婚する前の週に彼女はたずねたという、自分の最大の長所および短所はなんだと思うか。最大の長所は好奇心の旺盛なことであり、最大の短所は短気なことである、と彼は答えた。短気とはつまり、退屈なもの、平凡なもの、陳腐なものを我慢できない彼の気持ちを意味していた。また、彼の言う好奇心とは、単に純粋に知的な性格以上のものであり、経験に対する熱望であり、この熱望が、彼をして人生は緊密で、活動的で、満ち足りたものでなければならない、と考えさせたのだ。
1953年9月12日。褐色の古びた尖塔を持つニューポートの聖マリア教会で行われた結婚式には、地元民3000人が押しかけて、花嫁を押しつぶしそうになった。招待客は800人、披露宴には1200人を招いた。時にジャクリーヌ24歳、ケネディ36歳であった。象牙色の絹のタフタに、祖母が作ったバラ色のレースをつけたジャクリーヌは、白蘭の花束を持ってフランス人形のようであった。花婿のケネディは、前日のフットボールで顔に掠り傷を作っていた。ボビーを付添人として式場にケネディが現れると、ボストンのテノール歌手ルイジ・ペナがアベ・マリアを歌った。ボストンのカッシング大司教が単調な渇いた声でこう言った。
「希望と絶望、成功と失敗、歓喜と悲しみの未来はあなたがたから隠されている。あなたがたは前途に何があるかを知らずして、死ぬまで互いに連れ添うのである。」

1953年10月、新婚旅行からケイプ・ゴッドの家に帰ったケネディは、自分の好きな詩を若い妻に読ませた。彼女はその詩を夫のために暗記し、夫はそれを彼女に暗誦して貰うのを楽しみにしていたと言う。アラン・シーガーの「私には死との約束がある」であった。わずか10年の短い結婚生活のスタートであった。

死は私の手をとり
闇の世に私を導き
私の目を閉じ、私の息を絶やすだろう・・・・

しかし私には死との約束がある
焔につつまれた真夜中の町のなかで
春が今年もまた北へのぼってくる時
誓ったその言葉に忠実に
私はその約束にたがうまい。


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