第三回ダラスオフ会のご報告をいたします。今回のオフ会も前回40周年オフ会に負けないくらいの奇跡が起きました。「恐るべしJFKクラブジャパン」とおっしゃった方もいらっしゃいましたが、私自身「こんな事アリ?」と思えます。是非皆さんもこの奇跡を共有してください。今回もまた参加の皆さんのご協力により本報告書が出来上がったことに感謝いたします。

 プロローグ

例によって開かれたプチオフ会、2008年6月9日に東京にて12名のメンバーで行われました。当然話題は45周年を迎える11月のお話「いかがでしょうか、今年のダラスオフ会にご参加いただける方の挙手をお願いします!」するとどうでしょう何と7名の方が迷わず手を挙げてくださいました。私を含めて8名!これでは過去のダラスオフ会で苦労した人数読みの苦労はいらない。今までの中で一番気楽なスタートでした。加えてダラス駐在歴のある井上さんも真っ先に手を上げている、これで当日のフリータイムも結構充実したものになると喜びました。
7月下旬になって10月10日〆切の募集ページをアップ、今回は10名参加をベースに予算立をしてみました。ところが前回3泊5日で17万だった費用が4泊6日になったとは言え21万になってしまう、そう前回には無かった「燃費サーチャージ」と言うやつです。思うのだけど、このサーチャージって何かおかしいですよね。要するに各航空会社が「高くなったのはオレのせいじゃないよ」と言ってることですよね。普通なら価格転嫁をして、もともとの航空運賃を設定すれば済むことなのに「俺たちは企業努力でこれだけの価格で出来るんだけど、油が高いから油代出せ」どう考えても腑に落ちません。それにガソリンスタンドの価格は毎日の価格変動にあわせて上下しているのに、このサーチャージは一定期間据え置き(これだけ下がった今日現在でもそのままで、やっとこ1月から下げますよと言い出しています)結構差益が出てるんじゃないかしらん?まっ、天下の大会社を相手に喧嘩しても無駄ですのでしぶしぶ従うほかありません。
募集開始以後、真っ先に土田先生から参加表明!しかも奥様ご同伴。それを知った我が女房が私に何と言ったかはご想像にお任せいたします。〆切近くなっても井上さんからの連絡なし、恐る恐る「どうでしょう?」とメールしてみたのですが「新しいシステムを導入したばかりのため、私が居ないと月末の集計ができないので会社からのOKが出ないで困っています。家族は、こんな同好の方たちとご一緒できるなんてステキじゃない、会社なんて放り出して行ってくればと言っているんですが」何ともすざましいご家族ですな!決着男同士の話で「会社を放り出す」訳にも行かず、今回は断念となってしまいました。挙手のメンバーから一名減、土田先生の奥様とプチ会欠席だった小澤さんの参加で計9名、募集時の費用から七千円ほどアップをお知らせしたところ全員OK。ホテルの手配から現地バスチャーター、航空券の手配すべて完了したのが9月の末、あとは当日の出発を待つばかりと思っていた矢先の10月8日の夜7時「あのー参加したいんですが」とのメール、富山の高橋さんからでした。〆切二日前の出来事でした。チャーターバスは問題なし、ホテルもある方(?)のご希望でシングルユースを一部屋取ってありましたので私が同室すればOK。ただ航空券だけが問題でしたので翌朝早速連絡、一人追加のOKを確認しました(実はこれが、高橋さんのラッキーの原因になろうとは夢にも思いませんでした)これで当初の予定通り10名でのツアーが決定したのでした。

 今回は何を作ろう?

前回好評(自分だけの思い込みかしらん?)だったTシャツも今回は鈴木さんが「私が手配します」とのお申し出、前回のような「アイロンプリント」ではなく永久的に使える本格的なものを作っていただけるとの事でお任せしました。ところが、この手持ち無沙汰がまたしても色々なアイテムを考え出しました。
当日、各自に参考のために色々な資料をお渡しして当時と現在の違いを確認していただきたいと思って作った資料集「裸で持ち歩くのはあまり格好が悪いな」そうだブリーフケースを作ろう!立派なケースが良いのは勿論だけれどそんな余裕は無い!そうだ100円ショップだ・・・簡単なブリーフケースを買ってきて特製の表紙をつけて出来上がり、もっと無いか知らん?と100円ショップを徘徊、メンバー意識の高揚のためIDカードを作ろう!早速首から提げるIDカードケースを調達して10名分のカードを作成、みんなに記念の品をと特製DVDを製作、ブックマークも簡単に作れるな、ボールペンだって単なるボールぺンじゃ面白くないからクラブのマーク入りのボールペンを作っちゃえ!今思えば、まったく何やってんだろうと思えるほど色々なアイテムを作っちゃいました。空港で皆さんにお分けした時はみんな喜んで頂けたのですが決着あまり使っている人居なかった!「残念〜!」
まっ、どこかの片隅にでも置いておいて思い出になってくれればいいか!
11月も半ばとなり、ホテルの確認やら詳細の打ち合わせ、それにダラス現地でのチャーターバスのガイドさんに「ゆきさん」が決まったとの連絡。実は前回の思い通りダブル添乗をお願いしたのですが、みかさんは退職されたとの事。残念でした。「ゆきさん」は第一回のオフ会の時お世話になったガイドさんですが、あれから9年の歳月が流れています。「フーーーン」瞬間思った感想はご想像におまかせ。ただ、この「ゆきさん」が今回のツアーの成功のキーパーソンになったのです!

 いざ出発

11月21日朝、いよいよ出発当日です準備万端整った?私は三島駅に向かいました。家内は所要でチョット前に「気をつけてね」といって出かけました。心はすでにアメリカ!うきうきしながらホームで新幹線の到着を待つ私でした、ホーム案内が「まもなく列車が到着いたしますので、黄色い線から下がって・・・・・・・」ドヒャーーー「パスポート忘れた!」まさに天啓のようにパスポートを持って来ていないことに気がついたのです!皆には「死んでも忘れるな!」と言っておきながら・・・何十年ぶりに本当に「焦り」ました。階段を駆け下りタクシーで自宅に、焦っているのが見え見えなのでしょう、運ちゃん「お急ぎのご様子ですね?」急いでいるなんてもんじゃない。タクシーを待たせて家に飛び込みました。ところがパスポートは金庫の中、金庫の開け方は解らないし、金庫の鍵の在りかも知らない。携帯電話で家内に連絡、電話で話しながら金庫空け。これがこっちも焦っているので、ダイアルくるくる、一向に開かない何回チャレンジしたかも覚えていませんが実際には5分間くらいだったのですが、気分的に1時間ぐらいかかった気分でやっと開きました、深呼吸をして自分のパスポートであることを確認し、待たせたタクシーに飛び込む私でした。時間的なロスは30分程度でしたが・・・・もし忘れた事を気づいたのが新幹線に乗った後だったら!もし家の鍵を持っていなかったら!もし家内が携帯電話を家に置いていたら!・・・冷静になってみると奇跡の一種かもしれません。
実際には余裕をもって集合時間の一時間前には空港に到着する予定でいたのですが、こんなトラブルで到着したのが20分前、本当に良かった。最悪「皆で行ってきて」になるところでした。こんなトラブルが有った事などおくびにも出さず「さあ、参りましょう」などとほざいている自分が恥ずかしかったです。
全員集合して乗継地であるミネアポリスに向け機上の人となった10名でした。前回同様ミネアポリスで入国審査、前回この場所でトラブル第一号が発生したのですが今回は全員無事通過。でも、アメリカは5年ぶりなのですが以前以上に厳しい審査でした、審査官の質問も結構詳細でまったく英語駄目の人では困るんじゃないかしらん?


 ワシントン到着

成田空港到着からワシントン到着まで結局20時間近くの禁煙の旅「家内曰く」それだけ我慢できるんだったら禁煙したら?ごもっとも、「うん十年吸い続けているのだから、わずか20時間なんて」・・・と屁理屈をこねてナショナル空港の外で一服。思い切り楽しんだら、生まれて初めて吸った時の様に足元がふらついてしまいました。やっぱ禁煙しようかな?などと出来もしない思いにかられました。今回、中出さんは海外仕様の携帯電話を持参、しきりに感心している。携帯を開くと現地時間にチャンとなっているのだそうです。何も操作をしないでその場所の時間に自動的に更新されるのってどういう仕組みなのかしらん?やっぱりGPSなのかな?自分には解りません。さて3台のタクシーに分乗して一路ホテルへ、9年ぶりのワシントンです。夕暮れのリンカーンメモリアルを望みながらホテルに到着。実は、このチェックインが私にとってはチョットした緊張の瞬間だったのです。と言うのも今回のホテル選びは業者を通さず直接交渉して予約をしたもの。国内のホテルで電話予約をした時は何とも思わないのですが、さすがにブロークンイングリッシュでのメール予約、クーポンでも手元にあれば多少は安心なのですが何もなし。「承っておりません」などと言われたらどうしようと、平静を装っていても心は「どきどき」の瞬間でした。スムーズにチェックイン出来たときの安堵感は恥ずかしながら天にも昇る思いでした。そんな時後ろでガヤガヤ。奥様が「植田さんがデジカメをタクシーに忘れたんですって」おいおい、タクシーの領収書は貰っていないし、ID番号も覚えていない、こりゃ運ちゃんの良心に期待するしかありません、自己責任とは言えとんだ災難でした。結局このデジカメ手元には戻らずじまい。日本でもこの手の場合は戻らない事の方が多いのでは?
さて無事チェックインを済ませた我々はしばらくの休憩の後夕食を摂ってリンカーンメモリアルに向かうこととしました。外は間違いなく氷点下の気温、緯度からいくと旭川くらいになるのですがそれにしても寒かったです、でも心は燃え滾っています。メモリアルの途中にあるアインシュタインの記念碑でアインシュタインの膝の上で皆で「あかんベー」をして記念写真を撮りリンカーンメモリアルへ。目的はメモリアルの裏にあります。リンカーンさんには明日ご挨拶するとしてメモリアルの裏手に回ります。ここからはアーリントンの「永遠の炎」を見ることができるのです。ワシントンモールは直線で「リー将軍の住居」「ケネディの墓」「リンカーンメモリアル」「ワシントン記念塔」「国会議事堂」と配置されています。勿論ケネディの墓はあとから直線上にレイアウトされたのですがアメリカのケネディに対する思いを象徴するようなプランではないでしょうか?右の写真は実際のメモリアルからの写真ではありません(この日の撮影は全員失敗ではっきり写っていませんでした)翌日の夜和田さんが撮影したものですが、上の建物がリー将軍の家、下に白く写るのがアーリントンセメタリーの入り口の建物です。その間に赤く光るのが「永遠の炎」です。実はこの散歩には和田さんは同行していません。和田さんは趣味でやっているオーケストラのメンバーの一人なのです。
事前に日本から当日の夜ケネディ芸術センターで開催予定の「ナショナルシンフォニーオーケストラ」のチケットを購入、皆と別れて鑑賞に出かけました。しかもタキシードの正装で。夜の散歩から帰って早速恒例となった「イカゲソパーティー」を開いて飲んだくれている我々との違いは何なのでしょうね?弁解がましく言わせて頂ければ私も多少はクラッシック音楽には造詣があり、若い頃はコンサートにもたびたび行ったりしていたのですがさすがにタキシードには恐れ入りました。
そんなイカゲソパーティーの中、重大な問題発生!この寒さに閉口して帰った後だけに衝撃の事実に私は唖然!何と鈴木さんが自信をもって製作してきた例のTシャツが「半袖」であることが判明したのです。いったい何を考えてるのジャと非難集中!「前回のダラスはとても暑かったので・・・・
ワシントンの事は考え付きませんでした」と消え入りそうな鈴木さん「こりゃ鈴木さん、ストップ安」じゃなと皆にからかわれてしまいました。(しかし、この株価2日後にはストップ高の乱高下をいたします)

 ワシントン2008年11月22日12時30分

22日の朝、この日は拘束はお昼の1時30分のみ、すなはち東部時間の暗殺時間です。この時間だけは全員でアーリントンの墓所の前で過ごすことを約束して自由行動としました。ここでは皆さんからご投稿のあった「私のワシントン」を掲載いたします。その前に共通の時間であるアーリントンでのひと時と私のワシントンを。

没後45周年、2008年11月22日午後1時30分東部時間のその日その時を今回はアーリントンの墓前で迎えました。残念ながらケネディファミリーとの遭遇はありませんでしたがダラスのその日その時と異なり静かなひと時でした、逆にその日その時であることを知る人は全く居なかったと言うのが正確でしょう。アーリントンのビジターセンターでも没後45周年の日であることを示すものは全く無く、唯一お土産コーナーに「没後45周年記念のディスカウント」と称しオベリンのケネディバイオグラフィが半額で売っていました。さて定刻の午後1時、なかなか集まらないメンバーにいらいらしていたのですがきっちり1時には集合しホットしました。後述の「私のワシントン」で書きますが苦労して購入してきた献花を持って全員でケネディ墓所へ、途中の交通整理のおじさんの「花は駄目だよ!」の言葉に大きなショックを受けながら進みました。いよいよケネディ墓所の前に、三度目の墓参です、最初に来た時にはまさか三度も来る事になろうとは思いしませんでしたが、ある意味踏ん切りをつけさせてくれる仲間に感謝です。墓前に献花してその時を待ったのです。入れ替わり立ち代り見学していく人々に「今日は祥月命日だよ(意味解るかな?それも45年目の」と言ってやりたかったのですが・・・・もうひとつ、この日この時の為に「アメージンググレイスのファイルをPCに入れて持参したのですが、土田先生から「静寂」がルールだとのアドバイスにより断念しました。丁度1時30分、たぶんいつもと全く変わらないひと時としてアーリントンの地は過ぎていきました。ただ、私達の静かな祈りの姿を別にして。
ここでは何の説明もいらない、皆達にそれぞれの思いを感じていただきました。わずか45分間の時間でしたが皆さんそれぞれの思いを感じていただけたのではないでしょうか?ここで再び解散!それぞれの計画に基づいて行動して頂くことにしました、以下それぞれのワシントンを書いて頂きました。その前に、花束の運命について。交通整理のおじちゃんは「駄目」と言っていたけど墓所の警備?をしているおじちゃんは、我々が花束を置いても何にも言わない「これならそのままにしても大丈夫かな?とも思ったのですが、万一妙なトラブルになってもいけないと思い皆で一輪ずつ墓前において持ち帰りました。まさか一日中持ち歩く訳にもいかないのでビジターセンターの総合案内所のカウンターに置いて頂くことにしました。「JFKクラブジャパン」のカードのついた花束が、少なくとも半日は案内カウンターに置かれることになった訳ですので、まっいいか!

 私のワシントン

22日の朝、午前中と午後は自由時間の一日。今回は是非キャピタルの中に入りたい、これが目標でした。モールを西の端リンカーン記念堂から東の端連邦議事堂までゆっくりと散策することにしました。リンカーン記念堂、私個人的にはリンカーン記念堂は夜のほうが好きです。なにか夜空に堂々と聳え立ちライトアップされたリンカーン像は威厳にみちたものに見えるからでしょうか?昨晩に引き続きリンカーンさんにご挨拶してから例のキング牧師の立った場所に私も立ちました。リフレクティングプールを前景にワシントン記念塔そしてはるかにキャピトルともっともワシントンらしい風景で最高の立地です。この場所で最高の演説を聞いた人々の感動はいかばかりであったでしょう。その場所には現在、記念プレートが埋め込まれています。朝鮮戦争やヴェトナム戦争の犠牲者を悼む各種記念碑を見ながらワシントン記念塔へ記念塔に登るチケット売り場には長蛇の列。何せ待つことの嫌いな私は次回に又ねとパス。近くの記念グッツ売り場で来年のカレンダーをゲット、やはりこの時期の記念品はカレンダーが一番ですね、一年中感動が永続するのですから。第一回のダラスオフ会の時には来年のケネディカレンダーがあったのですが二回目の時には無かったけど今年はどうかな?いよいよキャピトルです、でも何やら正面では工事中?なんの工事かなと思って近づくと何と来年のオバマ就任演説の会場つくりが始まっていました、まだ二ヶ月近く先の行事なのにチョット早すぎない?と思いつつ、まさに右往左往どこに行っても柵でさえぎられる。こりゃ駄目だと本来の目的をあきらめた瞬間でした。
自身では、再度訪れる良い口実が出来たと納得したのですが、後で和田さんの話を聞いてガックリ。下院側から入れたとの事、あのときの悔しさは今思い出しても、クソー。残念な気持ちを引きずりながらペンシルバニア通をホワイトハウス方面へ、NHKのニュース番組なので「はい、こちらワシントンです」なんてやる時の背景に写っている画面をパチリ。ワシントンに来た時には必ず寄る「ポリティカルアメリカーナ」へ。皆にも紹介したのですが(ホワイトハウス近くのこの店は実は支店で、本店はユニオン駅の構内にあるのですが)今回はチョット様子が違う、やっぱり「オバマ、オバマ」の大合唱!オバマ一色の店内でした。いつもは結構あるケネディグッツも片隅のショウケースの中にひっそり、しかも全部非売品との事。オバマカレンダーは買う気がしませんでしたが、カウンターに「オバマ当選!」を伝えるワシントンポスト紙が$20で売っていました。私は持っていたので買いませんでしたが、私のお勧めでこの店を訪ねた人も何人か居たようですが誰か買ったかしらん?これってひょっとして将来かなりの価値が出る可能性を秘めています。(理由はご想像におまかせ)それはそうと、モールを歩いていた時、以前とはかなり異なった風景に出くわしたのです。そう、やたらと「物乞い」さんが多い!まさに、そこかしこに居るといった感じ「フーム、アメリカ経済の失速はここまで来ていたのか!こりゃ先行きの不安を肌で感じてしまった」などと柄にも無い思いにかられていたのですが、しばらくして理由がわかりました。モールで「ホームレス支援」の集会が開かれていたのです。この集会に集まる人々を目当てにホームレスさん達も「ビジネスチャンス?」とばかり集合していたようです。
時間は11時近くなっている、駆け足でホワイトハウスの前を通り抜け目的地へ。事前に調べておいた「花屋さん」です。アーリントンで墓前に献じるべく花束を調達したかったのです。花屋さんと言うからには店の前は花で飾られ一目で「花屋〜」といった日本的な店を想像していたのですが何もなく「事務所」の入り口のよう。中を覗くと確かに花屋。でも・・・なななんとクローズ。定休日かいな?土曜日定休なんて聞いたこと無い、とうそぶいても始まらない、やってないことは歴然とした事実。これからが大変「フローリスト」「フローリスト」と行きかう人にやたらと聞きまくってしまいました。日本で言えば霞ヶ関の官庁街で花屋を探すのですから結構大変!。とても「花」とは縁のなさそうな「おいちゃん」が「花よ花よ」と走り回る風情はなんともはや格好の悪いものではなかったでしょうか?何人のひとに聞いたかは記憶にありませんがやっとこ花屋の所在を知る方に遭遇し「花屋さん」にたどり着いた私でした。12時を過ぎているしこの花束を持って地下鉄でもないと思いタクシーをひろって一直線にアーリントンへ。30分前には到着していたのに他の連中たるや・・・たく。
午後の部、と言っても何もなし、本当はジョージタウンやリニューアルオープン当日の歴史博物館にも行きたかったのですが。正直、肉体的にも精神的にも疲れ果てていました。ベットが恋しくなり地下鉄でホテルへ、何もしないで夜のイカゲソパーティに備える私でした。

以下は旅行後に皆さんから寄せられたそれぞれのワシントンを掲載します、掲載方法につきましてはページ全体のデザインを統一するため、本ページの表示デザインに統一させて頂きました。又、文章の一部を趣旨に沿った形に改変「感想文」に移行させて頂きましたのでご了承ください。(各ページ使用の写真は各自の撮影分を使用)

 私のワシントン・和田圭三 

 私のワシントン・小澤正治 

 私のワシントン・植田浩司 

 私のワシントン・中出 忍 

 私のワシントン・堀口春夫 

 私のワシントン・鈴木克美 

 私のワシントン・高橋清治 

 参加者の行ったJFK関連写真

ジョージタウンに在るケネディの家々
左写真 ケネディが上院議員時代に住んでいた家
中央写真 ケネディ死後、ジャクリーヌが移り住んだ家 3012N.St
右写真 ケネディが上院議員時代に住んでいた家でここでジュニアが生まれた  3307N.St
鈴木克美さん撮影

 一路ダラスへ

23日の朝、次の目的地ダラスに向け出発。前日ホテルに依頼しておいたタクシーに分乗、ナショナル空港へ。空港に着いたとき土田先生が憤慨して曰く、俺のタクシー白タクだった、何とホテルが手配したタクシーが白タクとは!良く言えばおおらか、悪く言えば無責任!何かあったらどうするのでしょう。さて今回もミネアポリス経由、ANAとAAを組み合わせればすべて直行便で行けるのですが予算の関係上飛行機ばかり乗っている感じになっちゃいました。事前に土田先生から直行便を勧められていたのですが、ごめんなさい。ミネアポリスに向かう途中、知ってはいましたがこんな風景が。こんな飛行機を乗っ取られ自爆されたら防ぎようが無いと思うのですが日本にはこんな航空路は無いよなー
乗継地ミネアポリスに到着。このセントポール空港は我らJFKクラブにとっては鬼門にあたる場所であることが証明される出来事が乗継待合のときに起きてしまいました。何やら携帯メールをチェックしていた土田先生、奥様に向かって出た言葉が「亡くなったヨ」。えっ!又(このオフ会報告書を詳細に読んでいらっしゃる方にとっては「又」の意味がお分かりでしょう。二度あることが三度起きちゃいました}先生の「友人」の方が亡くなったと言う知らせだったのです。先生の言葉をそのままお借りすると「ご両親が他界した時よりもショックが大きい」との事、前回の時「今度のオフ会の時には。三島大社に行って厄払いをしてから行かなくては」と書いていたのに忘れていました。その後の先生の意気消沈ぶりは傍目にも明白で事情を知るのは奥様と私のみ。かと言って皆に「かくかくしかじか」と話す事もはばかられましたので話しませんでしたがすぐにでも帰国してもおかしくないような悲しみを抑えて、旅を続行していただいた先生に感謝いたします。帰国の翌日すぐさま弔問に行かれ、私宛に「やっと重荷から開放された思い」とのご連絡、本当にありがとうございました。
そんな悲しみを抱えても飛行機はダラスに到着。まさに9年ぶりの「ゆきさん」との再会です。「先生おひさしぶり!」のご挨拶。確かに前回のゆきさんとのツアーは先生と呼ばれても自分が面映いだけで違和感は無かったのですが、今回は土田先生がご同行「今回は先生はやめてくんない?」と一言、最後まで直らなかったけど・・・
今日はチャーターバスで一路ホテルへ、今回も予約は確認されておりホットしましたが今度は別のトラブルが!ホテルマンに各部屋の番号を書いてもらったのですが、4と6の読み間違い。これって、どう見ても4にしか読めないですよね、当然あなたは「2024号室」と言ったのですが「鍵」が開かない、そこに居たルームキーパーさんに聞くと2026だと言う「他に4と言ってしまった人居ないかなと思い部屋割り表を見てみると土田先生に「1504号室」と言ってしまっていました。早速二部屋に電話をしても全く応答なし。15階へ飛んでいったり、フロント周りを探したり、外に出てしまっているかとディリー広場を探し回りました。寒空の中汗びっしょり。こりゃ参ったとホテルに戻ったときにロビーで発見!事情を話すと「鍵の壊れている部屋では困る」とフロントに交渉して他の部屋に変えてもらいましたとの事、英語ぺらぺらの先生で逆に良かった、他の人ならただただ部屋の前で開かないドアとにらめっこ状態になっているはずです。ところで、私が土田夫妻を汗だくになって探していた頃、他のメンバーはそれぞれ明日の下見に回ったり、早々にミュージアム売店に行って買い物をしていたのですが、途中であった堀口高橋のグループがラッキーな出会いを果たしたのです。話によると、パピリオンの前で例の薄っぺらな小冊子を$10で売っているおじさんが居たとの事。この冊子はロバート・グローデンの著書「The Killing of a President」のダイジェスト版なのですが二人ともそんな立ち売りのおじさんの一人かと思ったのですがどうも様子がおかしい。近寄ってみるとなんとグローデン本人だったそうです。あのグローデンがディリー広場で自著を売っている?しかも、露天で。俄かには信じられませんでしたが本物であったようです。記念写真を撮り、購入したDVDにサインを貰ってご満悦の二人でした。
昨晩の夕食は存分にワシントンを満喫していただくため自由としましたが、今日はウエルカムダラスパーティと言う事で全員でウエストエンドに繰り出しました。前回のオフ会のときもウエストエンドに繰り出したのですが「原子寿司」は健在でした、全く意味不明の店名ですね。今回も「FRIDEY’S」の屋外テーブルに陣取ったわれわれ
5年ぶりのテキサスステーキに再会です。それでも前回参加された方がほとんどですので量の調整はお手の物でした、ただ「焼き方は?」とか「サラダソースの種類は?」と聞かれ意味がわからずどぎまぎ?やっと解ってみんな右へならえのミディアム・フレンチの連発でしたね・・・・前回は確か無かったと思うのですがウエストエンドを観光馬車が行き来しています。さしずめ浅草の観光人力車と言ったところでしょう。土田夫人はいたくお気に入り「鈴木君写真に撮って!それじゃないのあの馬車じゃないといや!」
写った写真はピンボケの流れ写真。鈴木君責任取れよ!夜も深まってきました、そうそうホテルでゆきさんと別れる時、ゆきさんから一枚のメモを手渡されました。「このメモをタクシーの運ちゃんに見せれば連れて行ってくれます。行って見て下さい。ただし必ず9時以降にしてくださいね。」と意味深な言葉。メモには「Cabaret Royale」とある、ロックフォードさんに話すと「Carousel Club」なら絶対行っちゃうけどネとの返事、うむその通り!今回はあきらめよう、今度一人で来たときには絶対行っちゃうもんネ・・フフフ

 ダラス散策

24日の朝を迎えました、高橋さんと土田夫人はダラスの朝は初めて。是非思い出に残る一日になりますように。出発に先立ってロビーに集合、全員例のTシャツを着用している、でもやはりTシャツだけの人はいませんでした、何らかの長袖の上から半袖のTシャツ、私は一応同じ白色の長袖シャツ上から着てみたのですがやっぱりあまり格好良くありませんのでジャケットを羽織って来ました。全員揃ったところで出発。ぞろぞろとディリー広場に向かいました、ディりー広場のプール(ヒューストン通り側のモニュメント)は現在工事中、やはり工事中ですと全体のイメージは狂いますネ。記念プレートにご挨拶して主にグラッシノール周辺を見て回りました。先生のお話が続きます、いわゆるモータゲート正面グラッシーノールからの狙撃手についてのお話が中心、さまざまな立位置からの検証が始まります。私にとっては前回の時は忘れてしまった当日のあらゆる方面から撮影された写真集が非常に役にたちました。現在は生い茂っている草木は当時は無かった事や例のザプルータフィルムに写し出されたと言われている狙撃手の潜む草むらが現在はほとんど刈り込まれており検証できない事などが確認できました。
先生の話は進みます「ザプルタフィルム」のアングルの点も先生は実際に石柱の上に立って解説されていました。時間はあっという間に過ぎ去っていきます、6階博物館の開く時間です。途中、事件後取り壊された荷物搬出口の建物の確認です。ウオーレン報告書最大のミステイクと言われる荷物搬出用建屋の位置、土田推論のポイントとなるTSBD本体の建物西側からの犯人脱出経路の説明も在りました、やはりこのくだりの説明の時は熱がこもっていましたネ先生。残念ながら今も残るTSBD北側の壁面の写真はだれも撮っていませんでした。さて6階博物館入場と思いきやドアが開かないガタガタやっていると「今日は月曜日だよネ!午前中閉館じゃない?」と誰かの声、ふと見ると確かに月曜日は12時開館と書いてあります。ウワーーミステイクじゃ、そこまでは考えてもいなかったし想像もしていませんでした。こりゃ困った、バスは12時じゃないと来ない事になっている、いくらケネディの事なら何時間も我慢できるメンバーとはいえこれから2時間近くもディリー広場をほっつき歩くのには耐えられないはず。旅行業務取扱者主任の資格(国内だけど)を持つ私が添乗員に早代わりした瞬間でした。幸い例の中出さんの携帯電話は海外使用可能「すみませんチョッと貸して」とバスツアーをオファーした会社と連絡、バスとゆきさんへの時間変更の手配、何度かのやりとりの末、可能な限り早い時間にホテルに行ける様にしますとの調整ができました。実は、このタイムラグがこれから2時間後に起こる奇跡がひょっとしたら起きなかった可能性を秘めていようとはこの時は全く思いもしなかったのです。11時近くなってやっとバス乗車、一路パークランド病院に向かいました。ここでも持参した当時の写真と見比べてみると救急搬入入り口の建物は当時と全く変わっていないことも確認できました。次はオズワルド殺害現場の旧ダラス警察の建物です。

 奇跡再び

事前の打ち合わせの時点でダラスの旅行会社とこんなやり取りをしていたのです。「今回は是非とも旧警察の地下駐車場に入りたいので交渉してほしい、失礼ながら御社に対して、もし入る事ができたなら成功報酬として$300位はお支払いする用意があります」と、返事は結局不可能との返事でした。ウーン残念、皆さんにもその旨告げて、今回もまた外から覗く程度で我慢してくださいと連絡したのです。そんな経緯もあって、旧警察に到着すると閉まったシャッターから中を覗く我々でした。すると、ゆきさんが私に「先生(やめてくれって言ったろ)どうしたいんですか?この中に入りたいんですか?」と聞いてくる。確かにケネディ関連の人間でなければ一体どうしたいのか解らないのが普通ですよね。「うん、この地下駐車場に入りたいんだ。ガードナーさん(ダラスツアー会社の窓口の人)にもお願いしたのですが無理だって言う返事だった」と経過を説明するとチョッと考えて「お約束はできませんが交渉してきます」と建物の中に入っていったのでした。そこまでしてくれるゆきさんに感謝して待っていると何台もの車が出入りしている。その都度開いたシャッターから中を覗き込む我々でした。待つ事15分位、建物からゆきさんが満面の笑顔、Vサインをしながら出てきたのです。「うん?成功?」後ろからついてきた屈強の男も笑顔で「入れ」と言っています。前回のバックヤードフォトの庭に入った時と全く同じ。歓声こそ上げなかったけれど我先に地下駐車場になだれ込んだのです。「ゆきさん有難う」の言葉に「私はお客様が望んでいることを実現させることが仕事と考えています。結構私この手の交渉には自信があるし成功率高いんですよ。ガードナーには内緒ですよ」なんと言うプロ!これぞプロ!と言った言葉に、ただただ感心した私でした。私はこの地下に入るのは二度目、一人でダラスに来たときに、近くのグランドホテルに泊まったのですが、当時はまだ駐車場として使用していたのか、自由に入る事ができたのです。他のメンバーはもちろん初めて、土田先生もチョッと興奮しているみたい、本当によかった!さて現場、私が最初に気がついたのは前回の時とドアの材質が変わっていたこと位(まっ、事件当時は無かったドアですので関係在りませんが)丁度車が一台通れる位の幅の通路の真ん中でオズワルドが射殺されたのです。ふと思った事が二つあります、ひとつは私の裏の家にテレビカメラの砲列や新聞記者達が大勢集まった事があります、例の大韓航空撃墜事件の日本人被害者の一人が私の家の裏にあるのですが、その時車二台がすれ違える位の道路が報道陣で埋め尽くされ、通ることも出来なかった事を思い出しました。この場所での事件は合衆国大統領暗犯の移送です。まさに世界中から報道陣が集まっていた筈、その混雑振りは私の経験した混雑の比ではない筈です、そんな中に何らか手段で紛れ込むことが出来たならば、殺害などは簡単ではなかったのかと思いました。二つ目はナッキーさんの事です。第二回のダラスオフ会の感想文に「次回は旧警察に地下にも入れるような気がしてます」と書いてあった事を思い出したのです。返す返すもナッキーさん残念でした。あなたの予言は的中しましたヨ。
時間は12時30分、もし6階博物館が開いていたら今頃は食事の時間、食事後パークランドへ行ってそれからここの場所の予定でしたのでひょっとしたら親切な係員は居なかったかもしれないのです、オーラッキー。うん?今日は11月24日そうだ!オズワルド殺害の当日です。時間は11時30分でしたから事件後45年後の1時間後にあたるのです。まさに45年前のこの場所は混乱の極にあったはずです。オズワルドの霊が引き寄せたとは思いませんが、因縁を感じました。

 奇跡の増幅


うーむ、これで今回のオフ会も又皆さんに満足して頂けると悦にいっていると。かの警備員、事件のフィルムを見るか?と詰所のようなところに我々を導く、そこのテレビモニターには事件関連の動画が、たぶんUチューブからであろうリスト化されて映し出されるようになっている。壁面には関連の新聞記事や、もろもろの資料が貼り付けられています。まるで観光案内所みたいな感じ。思うのだけど、当時オズワルドを殺害させてしまったダラス警察に対する非難は強く、ダラス警察世紀の大失態として署員全員この事件をタブー視するみたいなものが蔓延したと聞きます。でも45年の歳月は当時を知る現役警察官は勿論皆無となり、現役署員にとっては単なる歴史のひとコマとして捉えるようになったのではと感慨深いものがありました。フィルムが終わってかの人物次はこちらと我々を誘う・・・
何々?なんと屋内に案内するではないか!どう言うこっちゃ。地下駐車場に入れたことはそれはそれで奇跡に近いものがあるのですが、館内に入れるとは!正直この瞬間は驚愕の域に達したのです。多分事件後、日本人で拘置所内部に入ったことのある人は、それこそ数えることが出来るくらいじゃないかしらん。さすがにゆきさんも驚いて「私、刑務所の中に入るのは初めて!」と驚いている、まっ、刑務所じゃなくて拘置所だけれど、そうたびたびお世話になる場所ではないことは事実でしょうね。私は学生時代、例の「東京都公安条例違反」と言うやつで一晩だけお世話になったことがありますがネ大部屋でしたけれど。それはともかく、持っていた資料集の中からオズワルド殺害直前のルート図を出して場所の確認をお願いしたら、かの警備員ちょっとびっくりしていました。聞くと、ゆきさんは交渉のとき「今来ている集団は、単なる物見遊山のメンバーではなく、日本のケネディ研究者の集団で、はるばる日本からここの内部を見るためだけに来ているのだ」と説明したんだそうです。チョット違うけど大体そんなもんですが。それを有る程度補完するような私の行動だったようです。得意になって説明を始めました。
ついには我々を3階に誘う、勿論、拘置所内部におけるオズワルドの動きなどはどんな本にも載っていない。3階の独居房に案内した彼は「この3号室にオズワルドは収監されてたんだ!」と言う。前回のバックヤードフォトの現場同様みんな我先に記念写真。私も当時のオズワルドの気持ちになって一枚パチリ。ロックフォードさんは鉄格子をつかんでパチリ。「Just a patsy!」と叫んだかどうかは知りませんがネ
独居房の内部、入り口の上には誰が書いたのか、こんな落書きがしてありました。事件後いつの日かこの独居房に収監された人物が書いたものでしょうか?オズワルドが「Just a patsy!」と書いたものなら大変なものでしょうが・・・・かの警備員、館内をくまなく案内してくれる。接見室や食堂、当時の拘置所警備担当室等など。その話の中で「この建物は二年後に取り壊される」との話。いやーー我々にとっては本当に「ラストチャンス」だったのですね。50周年でこの地を訪れてみても内部はおろか建物自体が消滅してしまっている訳ですから。正直ほかの施設はあまり興味がわきませんでしたが、収監された独居房は今回の旅の愁眉でした。ゆきさんの頼みで特別な便宜を図ってくれた、かの警備員に何か「日本的」なものを送ってやってほしいとの事でしたので旅行後「扇子」と子供の「お古の祭り半纏」を送って上げました。

 オーククリフ地区へ

興奮の極に達した皆を乗せて遅めの昼食に。ウエストエンドのステーキ屋さんでしたが皆何を食べたか覚えていますか?あまりの衝撃にただただ機械的に食べているようにしか見えませんでしたがネ。でも、食事風景を撮った写真をあとで見て店員さんたちはどう思ったでしょうね?
食後バスはオーククリフ地区へ、まずは当時のオズワルドの下宿へ。まだ当時のまま残っていました。今回も外から眺めるだけと思っていたらゆきさんスタスタと玄関のチャイムを鳴らしている。もう我々の希望を先取りしている。出てきた現在の住人と何やら話している。話し合いがついたのか「中を見せてくれるそうです。ただし一人$5払えと言っていますが」おいおい入場料取るのかヨ。どうしようかなと思っていたら土田先生が「当時のまま残っているのならばまだしも、当然現在の住人の部屋になっているのだから、あまり意味が無いんじゃない」とのお言葉、確かにそうです。別に$50が惜しかった訳ではありませんが先生のお言葉通りといたしました。続いてティピット殺害現場。言い忘れましたがゆきさん同様バスの運ちゃんも前回、前々回と同じ運ちゃん、ツアー会社の契約社員だそうです、と言うことは5年前とは言え以前行ったことのある場所の筈、相当なお年と推察しましたが又間違えてしまいました。今回もまた私が道案内。ゆきさんも「前に行ったことがあるのに」と嘆息しています。50周年もこの運ちゃんになるのかな?今度ははじめから道案内しようと心に決めました。
次はテキサス劇場です、前回同様のコースですが、新鮮さは全く変わりません。到着するとどうでしょう前回まで無かった上映番組を紹介するせり出し看板が当時のままに復活していました。建物全体も再塗装したのでしょうきれいになっていました。前回幸運にも中に入ることの出来た時に案内してくれた PKO Oakcliff Foundation  が完全にリニューアルしたものです。と言うことは前回、感謝の気持ちと、活動への共鳴という意味で寄付した$100で看板の電球2〜3個分は役に立ったかな?実は、事前にこの Oakcliff Foundation  と連絡をとっていたのです(劇場内部、それも客席の中を見たいと言う要望でしたが)22日の夜でしたら記念上映会で「JFK」をやるから入れるとの返事。今回はお訪ねする日が24日になるのでそこを何とか、と交渉したのですが Foundation としては現在見学コースは設定していないので不可能、ただし、公益法人として劇場のレンタルをして活動資金の一部としているので劇場そのものを借り切ってはいかがとの事、値段を聞くと5時間レンタルで$700とのこと。ひとつの施設を5時間借り切るのに$700は決して高くはありませんが我々は5時間借り切っても、居るのはせいぜい30分くらい、正直$300位だったら出したかもしれませんが。そんなわけで、今回は新装なったテキサス劇場ですが中に入ることはできませんでした。次回ここを訪ねる時には「見学コース」が出来ていることを祈って。次は前回のメインイベントとなったバックヤードフォトの現場です。バスの中で「ジョンソンさんまだ居るかな?」と淡い期待をしていました。現場に到着すると一段と老朽化が進んでいます。こりゃあと5年は持たないかも?と思っていると又してもゆきさん各部屋をノックして回っている。もう、負けそう、前回の「みかさん」もがんばってくれましたが、これもプロ意識のなせる業、それとも年の功?(失礼)残念ながらどの部屋もご不在、もしジョンソンさんが在宅だったら最高に面白かったと思いましたし、ゆきさんの馬力からすると、どなたかが居れば間違いなく再びバックヤードフォトを撮影できたのではないかと思うのでした。残念でしたが、これにてオーククリフ地区の視察終了となったのです。

 45年目のディリー広場

再びディリー広場に戻った我々、本来ならば2日遅れとはいえ12時30分に、この場に戻る予定だったのですが、閉館のトラブルで最後のイベントになってしまいました。ゆきさんに購入してきてもらった花束をプレートに捧げ、しばしの黙祷の時間を作りました。今回は何と「フランス国旗」が掲げてありました。話は旧警察の場に戻りますが、我々とほぼ同時に一人の外人(我々も外人か!)が館内を見て回っていたのです。聞くところによるとフランス人でケネディを研究し本も数冊出しているとの事、こっちだって本を数十冊出している人が居るんだぞ!と先生を探しましたが近くに居らっしゃらなく残念。まっ、彼が置いていったフランス国旗なのかはわかりませんが「よし次回は日章旗を持参しようと心に決めました。時間は16時を少し回っている。6階博物館の見学やら、ケネディグッツの品定めなので閉館時間の18時位までは使ってしまうと思いここにて解散といたしました。そうそう書き忘れました、バスを降りた場所はケネディメモリアルの前、見ると前回のオフ会にて大トラブルを起こした Conspiracy Museum が在りません。私が「やっぱ、潰れたんだ!」と叫ぶと、間髪を入れず。「ざまーみろ!ですか?」と誰かさんが言ってました。「うん、そうです・・・」
全員お揃いのTシャツ姿で6階博物館に入ると、小澤さんの言葉を引用するとこうなります。「受付の黒人女性が指をさして「good!」と言ってくれたのが嬉しくて、調子に乗って着ていたジャケットを脱ぎ、背中の「JFK Club JAPAN We Love Jack」のロゴマークを見せて(遠山の金さん状態?)「2日前はワシントンのアーリントンのJFKのお墓を訪問したんだよー」とブロークン・イングリッシュで意気込んでみせたところ、後ろに並んでいたアメリカ人のお客さんも「oh!Great」を連発、受付嬢も白人男性スタッフに声をかけ、「あの人見て〜!」みたいな感じで、廻りの皆さんから握手攻めにあってしまいました。」さすがに半袖ではチョットでしたがジャケットを脱いでいても決しておかしくない暖かさ。ワシントンが旭川ならダラスは南九州の緯度、この大評判と気候の変化に対する鈴木さんの先見の明?に対して株価は急反発。ストップ高でしたネ

 又来る日まで

今回の旅も最後の夜、ウエストエンドで最後の晩餐。日本では3,000円や4,000円の夕食なんかめったに食べることも無いのでしょうが、全く金銭感覚が麻痺している我々、豪華な注文を次々してたいらげています。最後に支払いの段になってちょっとヒヤッとしました。お金が足りない、何度数えなおしても全く不足してしまう「おかしいな?ホテルを出るときちゃんとチェックしてきたのに?」決着$100札を$10札と見間違えていたのですが、チョット酔っ払うと区別がつかなくなるようなサイズの全く同じドル紙幣には困ったもんです。それにコインが「こらしよ」と貯まってしまいました。見分けがすぐにつかないから何でも札で払ってしまうので当然でしょう。(最後の食事となったセントポール空港でコインをぶちまけて「好きなだけ持ってけ」とやりました。)最後のイカゲソパーティは翌日が早いことと、メンバーの皆さん、さすがにお疲れの為かチョッピリさみしいパーティになりましたが最後の夜を楽しみました。いよいよ帰国の日、ホテル前で記念写真を撮って空港に向かいました。ゆきさんに今度は5年後に来ると思いますが、それまでがんばっていてくれますかと聞くと「勿論です、先生!」5年後か、御年○○歳となるのか?是非がんばっていていただきたいものです。今回の旅で貴女の「プロ」としての仕事への取り組みざまには本当に敬服いたしました、この場を借りて心より感謝いたします。飛行機はミネアポリスに向け出発。乗継地で冒頭に書いたラスト参加の高橋さんの幸運がめぐってきました。搭乗カウンターで「成田へ向かわれる高橋清治様、搭乗カウンターまでお越しください」とコールしている。戻ってきた高橋さん「何かオーバーブッキングしたようで、ビジネスクラスに変更してください」との事、早い時期に予約していた我々と違って単独で、それにやや遅い時期に予約を入れたための幸運でした。本当に良かった(クソーー)ですね!
再び禁煙の旅をしいられて成田到着。このNW19便はセントポール発成田経由バンコク行きなのですが、成田でトランジットする方々は足止めを食らっていました。自宅で最初に見たニュースが「バンコク空港騒乱」のニュースでした。
全員無事成田到着。今回の旅もトラブルも無く無事終了。前回同様皆さんに最大級の思い出をプレゼントできたと胸をはって言える旅となりました。本当にみなさんありがとうございました。土田先生のお嬢さんが空港までお出迎え、お嬢さんに写していただいた写真を最後に報告書を閉じたいと思います。







左から、植田さん、土田先生、奥様、中出さん、私、高橋さん、堀口さん、小澤さん、鈴木さん、和田さん のメンバーです。

 旅行後の皆さんの感想です。到着順


 土田 宏先生

今回のアメリカ・オフ会では、事件当時のダラス警察の内部に入れたこと、そしてオズワルドと同じ空間を一瞬でも共有できたことが、最大の収穫だった。彼がルビーに撃たれた現場の狭さには驚かされたが、それだけに警察関係者、報道関係者のひしめくなかでの犯行が可能だったことに驚くと共に、改めてルビーとダラス警察の特殊な関係を思わされたのだった。 また、これまで、「危険」を理由にタクシーさえ連れて行ってくれなかったオズワルドの下宿先に行けたことも大きな収穫だった。彼の生活の場や逃走経路の様子を、たとえ45年の月日が流れていようとも、体感できたことは大いなる喜びだった。 その現場で、ティピット巡査殺害がオズワルドではないこと、巡査殺害の容疑者を見たとする人たちの証言のいい加減さ(現場を見ていられるような家がないという実感)を再確認できたことは、オズワルドが下宿からテキサス劇場にまっすぐ、それもゆっくりと歩いて行ったという私論を再確認できた(自己満足ですけど)ことは、もう一つの収穫だった。これらを可能にしてくださった前田さんのご尽力に心から感謝申し上げたいと思う。 ワシントンからダラスへの移動の途中で、大学時代から私が「お母さま」と呼ばせていただき、公私にわたり実の母親同様に頼ってきた女性が95歳で逝去された知らせが入った。彼女と初めて会ったのが、私が初めてアメリカの土地を踏んだときであったので、何か因縁めいたものを感じないわけにいかなかったが、私の心が空になった気がした。以後、精神的に立ち直れない状態で成田まで来てしまったが、このために前田さんはじめ、同行の皆様には、不快な思いをさせてしまったのではないかと、深く反省している次第です。(特に帰国後、家内に叱られました。)申し訳ありませんでした。 前田さん、皆さん、ありがとうございました。そして、お疲れ様でした。

 高橋清治さん

私のワシントン参加締め切りギリギリで勝手を申して今回のダラスオフ会に参加させて頂くことが出来メンバーの方々のご協力を頂きながらたくさんの思い出と共に帰国致しました。小生にとってはJFK暗殺現場となったダラスへの思い入れが深く又 ワシントンでは日本から持ち込んだ風邪の影響か体調不良と寒さもあり自重しました。やはり圧巻はダラス市内でした。以前のオフ会報告にもなかった旧市警の内部 それもオズワルドが収監されていた3階3号室まで見られるとは夢にも思いませんでした。旧ダラス市警訪問時は今から45年前・・中学2年生の頃にタイムワープし 探偵マンガ(まぼろし探偵・鉄人28号の金田正太郎・月光仮面の祝十郎) やアメリカの正義ドラマ(ハイウェイパトロールのダン隊長・アンタッチャブルのエリオット・ネス)の影響も有ったのでしょうか 「あのアメリカの警察署の中で何で容疑者が暗殺されるのか?」と素朴な疑問とその時 自分が何をしていたかを未だに思い出します。TX劇場 オズワルドの2箇所の下宿などアメリカのそこかしこで見かける街角風景であり その当時からこんな片田舎にもFBI CIAのインフォーマーや息のかかった者が徘徊しウォーターゲート事件で逮捕された3名の様に「祖国 国家の為なら殺人も辞さない」輩が存在したのでしょうか。グラッシーノールのパーゴラで 暗殺研究家として名高い R・グローデン氏に遭い握手・サイン・記念撮影の3点フルセットまでおねだりし 興奮の極みに達しました。「ダラス離れ難し」の思いを強く感じ 5年後の暗殺50周年には再度訪問したいと思いますが 果たして「ディーリー広場」 「6Th ミュージアム」「TX劇場」以外に健全な状態で残る建屋 施設はあるのでしょうか?最後に前田様 土田教授ご夫妻様 メンバーの皆様に大変お世話になりこの場をお借り致しまして厚く御礼申し上げます。有難う御座いました。

 小澤正治さん

今回で、私にとって3回目になるダラスオフ会、過去2回、それぞれ感慨がひとしおだったのですが、3回目も忘れられない生涯の思い出になるものでした。ワシントンでは、JFKの命日に文字通り「お墓参り」が出来ましたし、ダラスでも、過去のオフ会で実現できなかった旧ダラス警察の内部潜入という私にとって「歴史的」な訪問となり、天候にも恵まれ「また参加してよかった!」という一言に尽きる旅となりました。旧ダラス警察は、事前の問い合わせでは、地下道に入ることもNGと、前田さんから聞いておりましたので、建物の内部まで入るOKが出た時の感動、興奮は、日本に戻った今でも瞬時に甦ってきます。2年後には工事により消滅してしまうオズワルドが入っていた留置場を見られるという、想像すら出来ない事が実現したのですから・・・第1回ダラスオフ会に続き、ダラスでの専用バスに添乗いただいたユキさんの交渉力と、こちら側の要請を快諾いただいたKevinさん、Josephさんにも本当に感謝いたしたいと思います。前回訪問では廃墟一歩手前状態だったテキサス劇場も、オーククリフ基金の方々によって復活、事件当時のせり出した看板も復元され、その看板に表示されていたのが11/22に上映されたオリバー・ストーンの「JFK」、これも私にとっては「この時期に訪問しなければ見ることの出来ない絵になる構図との遭遇」で感慨深いものでした。今回は、国内オフ会で大変お世話になっている土田先生もご夫妻で参加され、デイリー広場での、グラシノール付近での狙撃者がいたと想定した場合の立ち位置の鋭い分析のお話等も現場でお聞きできたことも大変嬉しかったです。前回同様、参加のメンバーの方々とも連夜の楽しいアフターファイブ(所謂イカゲソ・パーティー)を過ごすことが出来ましたし、JFKクラブのメンバーの皆さんとの思い出の共有部分がどんどん増えていくことはとてもすばらしい事だと思います。ダラスの6階博物館を訪問し入場チケットを買う際、JFKクラブメンバー鈴木さんが監修・制作のJFKクラブTシャツを着ていたので、私の胸面のケネディの写真に気づいた受付の黒人女性が指をさして「good!」と言ってくれたのが嬉しくて、調子に乗って着ていたジャケットを脱ぎ、背中の「JFK Club JAPAN We Love Jack」のロゴマークを見せて(遠山の金さん状態?)「2日前はワシントンのアーリントンのJFKのお墓を訪問したんだよー」とブロークン・イングリッシュで意気込んでみせたところ、後ろに並んでいたアメリカ人のお客さんも「oh!Great!」を連発、受付嬢も白人男性スタッフに声をかけ、「あの人見て〜!」みたいな感じで、廻りの皆さんから握手攻めにあってしまいました。個人旅行では到底こんな振る舞いは出来ないと思います。心のどこかにJFKクラブメンバーとしての私自身の「ささやかな誇り」が芽生えているのかなぁと思えた一瞬でした。最後に、今回一緒に参加いただいた土田先生ご夫妻、中出さん、鈴木さん、堀口さん、植田さん、和田さん、高橋さん、色々お世話になりありがとうございました。これからもJFKクラブ・メンバーの一員として楽しく交流をしていただけたら幸いです。そして今回もツアーグッズの用意から始まり、その他モロモロ至れり尽くせりの取り仕切りをしていただいた「御大」前田さんに感謝いたします。

 鈴木克美さん

2003年の感動的な40周忌ダラスオフ会から5年、思えば5年前、会社の部長に「45周忌は有給休暇を頂きます」と公約頂いたのが、つい先日の様です。時が過ぎるは早いものです。そして、その日その時が来たのです。気分が高調していたせいか、出発当日は微熱、ダラス2日目は美味しいステーキを食べ、胃腸が驚いたのか?お腹の調子が悪化。皆様にはご心配をお掛けしました。今回は土田先生にご同行頂き、前田さんとのダブル添乗と此の上ない喜びのもと、紅一点土田先生の奥様、そして初参加の高橋様と感動の4泊6日の旅がスタートしたのです。一同成田に集合、前田さんがオフ会参加記念品を持参。とても素晴らしい記念品!ありがとうございました。そして小生からは満を持して当クラブのロゴマーク入りのTシャツを皆さんに配布。ところが小生の株は値幅制限一杯のストップ安!(苦笑)「11月に半袖シャツはないでしょう!?とのこと」 トホホ。この後、ダラスでは好転しストップ高になるのですが...。(笑)ともあれ、離陸「いざワシントンへ」レーガン国際空港からホテルまでタクシーへ分乗。半ば日が落ち、車窓からポトマック川を隔てて先ず見えてきたのが尊敬する一人ジェファソンの記念館!「明日見学出きればいいな」と思いながら、ワシントン記念塔や連邦議事堂、そしてリンカン記念館!!鼓動の高鳴りを覚える一瞬!事前に土田先生から「ワシントンは寒いから手袋持参は必須だよ」とアドバイスを受けましたが、想像以上に風が冷たく体感温度は下がる一方、土田先生の奥様から携帯ホカロンを頂き寒さを凌ごうとしましたが、寒がりの小生にとっては厳しい船出と相成りました! 挙句の果てに頂いたホカロンを無くしてしまう羽目に。すみません。そして、リンカン記念館へ赴く。「ここでキング牧師が演説したんだ」と思うと、熱いものが込み上げてくる。そして、キング牧師の思いと松明が次期大統領のオバマさんへ。裏側に皆で回り、遠くに微かに確認できる「永遠の炎」をしっかり脳裏に焼付けてホテルへ。

 和田圭三さん

今回のダラス・オフ会の白眉はなんと言っても、ディーリー広場での土田先生の解説と、旧ダラス市警のオズワルドが収監されていた留置場に入れたことの2点に尽きる、と思います。 前回ダラスに来たときは参加者全員がいただけることになっていた先生の著書「秘密工作ケネディ暗殺」を早く読みたい!という気持ちでいっぱいだったのを思い出します。現場に献本したものを巡る騒動もありましたから、余計に印象深く覚えています。予想外のA・B提督説も衝撃的でしたが、非常に説得力があり、かつ読みやすく書かれていたので、帰国後一気に読破したことを思いまします。 5年ぶりに訪れた現場、広場のヒューストン通り側が工事中なのには少しがっかり。でもエルム通りの現場脇にあるプレートの周りには花や国旗が飾ってありましたね。フランス国旗まであったのには驚きました。次回は日本の国旗を持って行きましょう。 現場に行くと忘れていたことを結構思い出すものですね。警察OBの方がよく「現場100回」とおっしゃるのがとてもよく理解できました。 私は5年前の記憶がややあやふやになっており、ザプルーダーの立っていたところとグラッシーノールの関係が頭の中では曖昧になっていました。土田先生のお話を確認しながら、バッジマンがいたといわれている場所に立ってみるとやはり不自然に思えます。もう一人のスナイパーは柵の西側(ザプルーダーの立っていた側に近いほう)ではなく南側(エルム通りに面した側)の影に隠れていたと見るのが自然でしょうね。 第一、(恐らくプロであろう)殺し屋があんなにはっきり顔を晒す危険を冒すでしょうか? あれが犯人だと仮定しての話ですが、ポラロイドでもあれだけ写るなら、35mmのカメラであったらもっとはっきり写ったでしょう。当日は、ディーリー広場から大統領の写真を撮る人が何人もいる可能性もあり、実際何人かは写真を撮っています。また、銃声がした方向へ走っていった人もいました。 私が狙撃手なら、柵の上のV字形をした隙間を矢狭間のように使い、そこから銃身だけを出して撃つと思います。その方が銃もある程度固定できるし、ディーリー広場に立っている人たちからも見えにくい。時間が限られ、ミスは許されない(恐らく1発で当てなければならない)状況ですから、見つかる危険は出来るだけ排除し、条件を整えて撃とうとするでしょう。そう考えたら、バッジマンの存在すら疑わしくなってきます。もしかしたら、あれはみんなをミスリードするためのフェイクなのかも・・・。 さて、今回の「奇跡」は旧ダラス警察署内の見学でしたね。オズワルドの命日、それも45年前の当日のその時間帯といえば、彼がパークランド病院で救命処置を受けていた頃です(私が現場で見た「ある大統領の死」は東部標準時表記なので、オズワルドが撃たれた12時21分というのもワシントン時間です。ダラス時間では11時21分でした。おわびして訂正します)。前回の「West Neely Streetの家」と「テキサス劇場」の「奇跡」は彼が逮捕された日で、今回は彼の命日。「はめられた」オズワルドの霊が我々を導いたのでしょうか? 彼が収監されていた留置場には「オズワルドはここにいた」と書いてありましたが、例えば「オレはやってない!」とか「オレはルビーに狙われている」いったような彼自身の手による落書き(漱石の「倫敦塔」みたいですね(^^; )が残っていれば面白かったのに、と不謹慎ながら思ってしまいました。 最後になりましたが、今回のツアーの準備をしてくださった前田さん、T-シャツを手配してくださった鈴木さん、そして、我々のツアーにご同行くださった土田先生ご夫妻に心からお礼申し上げます。

 植田浩司さん

5年前のダラスオフ会に続いて2回目の参加となりました。なんかあっという間に過ぎ去りましたね。とっても楽しかったです。今回は前回と違ってワシントンDCも散策。5年前はダラスでその時を迎えましたが、今回は永遠の炎の前で追悼。お祭り騒ぎになっていたダラスと違って静かに故人を偲ぶことができました。 5年ぶりのダラスは、デイリープラザにはトリプルオーバーパスをくぐってくるルートではなかったので、いつの間にかついちゃったって感じでしたね。5年前のあのわくわく感がなかったのがちょっと残念。デイリープラザが工事中だったのもなんですよね。でも、5年前よりダラスのダウンタウンには活気があったような気がします。 また、ガイドのユキさんの頑張りでダラス警察内部めぐりができたのはうれしかったですね。まさか、そんなところまで行けるとは思っていませんでした。駐車場のところまで行けるのかなって思ったら、留置場の内部まで案内していただけるとは。もうこれだけで十分来たかいがあったと思います。今回のもうちょっとワシントンDCについて事前に勉強していくべきだったかなとは思います。下調べをしていればもっと堪能できたんでしょうね。

 堀口春夫さん

第3回ワシントン・ダラスオフ会、皆様お疲れ様でした。今になると、あれだけ心待 ちにしていたオフ会もあっという間に、終わってしまったなという感じです。今回の オフ会は、土田先生ご夫妻も参加されての豪華なオフ会となり、更なる充実感を満喫 しました。今回のオフ会での私自身の印象深く、大きな収穫は三つ有りました。先ず 一つ目は夜景の中に灯る小さな炎、永遠の炎をリンカーン記念館から見た事。何気な く見ると見逃してしまいそうな明かり、でもこの目でしっかり確認する事が出来まし た。あの寒さ、風の中でも決して消える事無く燃え続けるトーチ、感動ものです。二 つ目は、旧ダラス警察の建物の内部へ、ゆきさんの交渉の甲斐あって、幸いにも入る ことが出来、オズワルドがルービーに射殺された、正にその現場や、オズワルドが留 置されていた鉄格子の3階3号室を見学できた事。おまけにビデオまで見させてもら い、至れり尽くせり状態でした。本に出てくる下りスロープの感じも、現場を見、実 際に歩く事によって、イメージが正しく再現される様になりました。三つ目はデイ リー広場で、あの有名なグローデン本人と会い、買ったDVDにサインをもらい、記念写真まで撮れた事。最初は単なる出店の老いた親父さんと思っていたら、若い米国人が 盛んにその親父さんに質問し、一緒に写真撮らせてくれないか、と頼んでいて、脇で見ていて何やら有名人らしいとわかり、高橋さんが出店の同じメンバーに聞いて、や っとあのグローデンだというのがわかり、大変ラッキーでありました。今までのグ ローデンの写真やビデオは若い頃ので、今では大分年取って、イメージが違い、すぐ には分からずでした。以上の様に、今回旧ダラス警察内見学など、予想外の出来事を 含め、毎回経験しており、このオフ会を盛り上げている所以だと思います。こうした 事は一人で旅して見て回ったとして、中々叶う事ではありません。感動とともに内容 の充実さ、これらがてんこ盛りの今回のワシントン・ダラスオフ会感想でした。

 中出 忍さん

「第3回ダラスオフ会」に参加された皆さんお疲れ様でした。毎回の事ですが、航空機のチケットからホテルの手配・ツアーバスの手配、グッズの作成と忙しい日常の合間を縫って我々のために準備してくれた前田さんに先ずお礼申し上げます。有難う御座いました。また今回は奥様同伴で参加して頂いた土田先生にも、現地での解説等して頂きまして大変有難う御座いました。第1回ダラスオフ会から9年目となる、今年の第3回は正直参加するか迷った部分もあったのですが、今回は「その日・その時」をワシントンDCのアーリントン墓地のJFKの墓前で祈りを捧げる、ということで決心しました。それと第1回の時に訪れたワシントンDCに再度行きたいという希望もありましたし<私のワシントン>に書きましたが、今回はJFK以外の目的でジョージタウンへ行きたいという強い要望も引き金になりました。そして当然ながら参加してよかったと今思っております。今回のダラスオフ会参加については、カミさんにはかなり早い時期から「行くつもりだよ!」と宣言してあったのでその点は問題なかったのですが、母親の一周忌や娘の受験の事とか、仕事関係のこととかいろいろと雑事があり非常に多忙で、少々バテ気味ではありました。さて、最初の訪問地であるワシントンDCでの珍道中は<私のワシントン>で書きましたのでここでは省きます。現地時間23日早朝7時ホテル前集合でタクシーに分乗して、レーガン-ナショナル空港へ向かいミネアポリス経由でダラス入りしました。今回NW航空だったので乗り継ぎは仕方なかったのですが、これが結構面倒でした。さて、5年振りのダラス/フォートワース空港で我々を迎えてくれたのが、9年前にお世話になったYukikoさん。変わらぬ笑顔での再会にロックフォードは何となく懐かしくもあり嬉しかったです。宿泊ホテルも9年前と同じハイアット・リージェンシー・ダラスとあって益々懐かしい。このホテルはとても立派で好きですが、前回雨漏りしてたのを猫太郎さんと思い出し苦笑い。ダラス初日の夜は皆と一緒にサウスエンドへ繰り出して、テキサス名物のステーキとビールでのディナーとなりました。明けて24日の朝はホテル内でサリンジャー君と猫太郎さん、植田君と18$なりの朝食を食べましたが・・・金銭感覚麻痺してるのとドル安なので、この値段がバカ高いと感じたのは後のことでした。さて全員集合で徒歩でディリー広場へ向かいます。このホテルのいい所は歩いて5分程でディリー広場へ行ける事。今回のツアーでも小さなアクシデントはありましたが、ダラス最初のアクシデントはこの直後でまさかその出来事が後の“奇跡”に繋がるとは誰も思ってもいませんでした。兎に角予定である「6階博物館」の開館するまで、思い思いにディリー広場の暗殺現場を探索しています。土田先生の解説が始まると皆一斉に集まり、前田さんの解説が始まると集まり、そうこうしている内に予定の時間が来たので・・・その前に私はビデオテープの予備を忘れたことに気付き、少し迷ったのですが1人ホテルへ戻ります。これも後の“奇跡”を考えれば正しい行動で、お陰で“奇跡”を漏れなく撮影出来たのです。さて「6階博物館」へ御揃いで行くと何故か扉がクローズ状態。何故?との思いに判明したのは、月曜日は午前中閉館とのこと。Yukikoさんとツアーバスが来るにはまだタップリ時間がある。兎に角何とかしなくてはと、前田さん私の携帯で「JAPANTOURS & TRAVEL,INC」へ連絡。Yukikoさんに予定より早く来て貰うように交渉。その空き時間に一旦ホテルへ戻ました。作戦練り直しで前田さんと私はホテルのレストランでコーヒーを飲む。これ3$だったけど、朝食と同じ店。やはり朝食は高かった!結果、Yukikoさんとツアーバスは予定より早く来てくれて、ダラスの日程は無事再開です。ツアー再開の最初はパークランド病院へ向かい、次に旧ダラス警察署の建物へ行きました。ここはオズワルド殺害現場ですが、ここは1回目も2回目も入ることを許可されなかった場所です。今回も許可は下りなかったので、でせめて入口付近で記念撮影を…と皆で撮影を開始した時にガイドのYukikoさんが「私が掛け合ってみましょう!」と事務所の方へ消えました。前田さんも私も「ダメでしょう!?」と思いつつも「もしかしたら!」の期待を込めて、駐車場の入口付近で20分程待ちました。そんな時、突然私の携帯に着信が入る。誰かと思ったら日本の友人…「んっ日本は今夜中じゃないか?」と思ったものの嬉しくて「こちらは今お昼です。もしかしたら大変なことが起きるかも!?」と伝えて切りました。その直後にYukikoさんがOKサインを出しながら2人のアメリカ人と戻って来ました。「見学OKだそうです。この人たちが案内して呉れるそうです!」…「嘘だろ〜!」と思いながらも全員興奮状態で開いた駐車場の扉からズンズン入っていったのです。またしても“奇跡”は起こったのです!もうこの後の話は他の皆さんも詳細に書かれていると思いますが、兎に角あの時の体験は興奮しました。正に歴史の中にタイムマシンで連れて行かれたようでした。ニュース・フィルム等で旧ダラス警察署内を連れまわされるオズワルドの映像は、何度となく見ているワケです。その同じ建物の中にいま自分が居る。オズワルドが実際に収監されていた場所に入った時感じたことは、彼はどんな気持ちでこの場所に居たのかということです。実際に暗殺をしていなくとも、自分の役割を実行しただけだったのか?暗殺犯の囮として逮捕されたと感じていたのか?実際彼は何をどこまで知っていたのか?そんな事を考えていたら、何となく彼の霊がまだここに居て何かを訴えているようなオカルティックな気分になりました。普段も直接交渉すれば見学出来るのかは不明ですが、ハッキリしているのはこの建物が2年後に取り壊されてしまうということで、今回中に入れたのは本当にラッキーだったと思います。案内してくれたKevinさんとJosephさんには感謝・感激です。勿論Yukikoさんにも感謝です!この後昼食になり、皆で勝利の乾杯をしました。この時のランチが今回の旅行中で一番美味く感じました。食後はティピット暗殺現場、テキサス劇場と廻りバックヤードへも行きましたが、今回酔っ払いのジョンソンさんは留守だったので、2回目の「ニーリー街の奇跡」は不発となりました。もっとも本日はすでに奇跡を体験済みなので、誰も不満を言う人はいませんでした。この後再度ディリー広場へ戻り、自由行動となりました。「6階博物館」へ行く人、ショップへ行く人と別れての行動でしtが、私はサリンジャー君と植田君と会社関係のお土産探しにダウンタウンをうろついたお陰で「6階博物館」へはとうとう入れませんでした。今回唯一の心残りです。帰国日の25日は早朝5時ロビー集合とのことで、最後のイカゲソ・パーティは少人数でひっそりと1時間程で切り上げました。この時のお酒を調達するために、植田君と寒風の中夜のダウンタウンを40分程うろついたのも、今となっては懐かしい思い出です。帰路既に5年後の50周年の話が出たのは当然の成り行きですが・・・また皆さんと行けると嬉しいです!今回、初参加で写真の度に、ネクタイの曲がりを気にしていた高橋さん(笑)、来年1月か2月に東京で開催予定の「公認プチ新年会」に来て下さい。サリンジャー君Tシャツご苦労様でした(私だけ着なかったけど)、猫太郎さんまた都内で宜しく。植田君新年会で待っているよ。和田さん蝶ネクタイ似合ってましたよ。堀口さん「エクソシスト」必ず見て下さい。土田先生ワシントンでは有難う御座いました。奥様もいろいろとお気遣い頂き感謝しております。最後に前田さん有難う御座いました、そしてお疲れ様でした。前田さん、来年ロックフォードは何か企んでおります!